寸評 2008年

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◎=絶賛 ○=よい
2008
タイトル 著者 出版社 価格 読了日 感想
停電の夜に ジュンパ・ラヒリ/小川高義訳 新潮社 借590 2008/08/19 ○ 在米インド人2世である作者の立場と同じく、主に欧米文化圏の中にあるインド人(ベンガル人)を主人公とした、含蓄のある9つの短篇を収録。 倦怠期にある男女が停電の夜にロウソクの灯りの下で打ち明け話を交わす「停電の夜に」。両親の親友であったパキスタン人との切なくも懐かしい記憶「ピルザダさんが食事に来たころ」。旅行ガイド兼運転手の男が、奇妙な家族に振り回された一日「病気の通訳」。アパートの入口に住み着いていた妄想的な老女の悲哀「本物の門番」。妻子ある男に熱を上げていた女性がようやく自分を見つめなおす「セクシー」。心はインドから離れないベビーシッターの女性と過ごした日々の思い出「セン夫人の家」。前の住人が隠していた宗教グッズの発見に狂喜する妻に戸惑う夫の「神の恵みの家」。生まれつき原因不明の発作性の病に憑かれた女性の予想外の治癒の「ビビ・ハルダーの治療」。下宿の家主である風変わりな老婆と始まった新しい生活の「三度目で最後の大陸」。 何れも、それぞれの境遇の中で生きている人々の、ちょっとした心の動きや、 悲しみの中にある喜びが、短いながらも気の利いた文章の中で描き出されている。
贖罪(上)(下) イアン・マキューアン/小山太一訳 新潮社 借552+590 2008/08/10 ◎ 1930年代のイギリス郊外の上流家庭で、夢見がちに暮らす少女。 ある夜、身内で起きた強姦未遂事件について、彼女は誤解と個人的な屈折感から、 姉の恋人が犯人であると証言してしまう。これによって、姉と恋人の運命は 無残に引き裂かれ、そしてそのまま時代は戦争一色に染まって行く。 数年後、大人になった彼女はようやく自分の犯した過ちの重大さに気付くものの、 それはもう取り返しの付かない事となっていた。 そして後年、作家となった彼女は、果たされることのない贖罪のために、 自分たちの家族の物語を綴ってゆく。 少女、その姉、姉の恋人、それぞれの視点から、それぞれが被った悲劇と苦悩が、 くどい程に綿密に描き出される。そして意表を突くラストの展開には、 どうしようもないもどかしさと無念さが伝わって来ると共に、 この表題の意味が重く圧し掛かって来る。
あしたはアルプスを歩こう 角田光代 講談社 400 2008/07/30 ◎ 登山なんてしたことがなかった角田さんが、TVの仕事として 気安く引き受けてしまった、イタリアでのトレッキング企画。 しかし実は、三千メートル級の高山あり、ロッククライミング然とした断崖あり、 氷河さえあるような本格的な登山だった。 山を歩きながら見たこと感じたことを、角田さんは、大袈裟に騒ぎ立てることも、 感動を誇張することもなく、あるがままに、あくまでも自分の言葉で綴っている。 同行のスタッフたち、山小屋の夫婦、農場夫や羊飼い、そして何よりも 山岳ガイド夫妻との出会いは、角田さんに新鮮な驚きと感動をもたらすと共に、 地に足を着けて歩くことの重みを実感させるのであった。 山岳ガイドのマリオさんの語る、さり気ないひとつひとつの言葉の持つ重みと含蓄、 そしてそれを漏らさず伝えてくれる角田さんの筆の力量の見事さ。 紀行文と言う枠組みを借りて、作家の心の内なる感動を描き出した傑作。
悪人 吉田修一 朝日新聞出版 借1,800 2008/07/19 ○ 九州北部の山奥の道路脇で発見された若い女性の遺体。 この女性が、出会い系サイトで多くの男と関わりを持っていたことが判明し、 それをきっかけに、女性に関わり合った彼ら彼女らそれぞれの抱える事情が 徐々に明らかに。それぞれの登場人物たちの視点を切り替えながら、 状況を見直してゆく中で、出来事の表向きの顔とはちょっと違った、 別の顔が次第に見えて来る。 読者には、犯人は間もなく明らかにされる。 しかし、真の意味での悪人は誰なのだろうか。 逃亡生活を送る犯人は悪人でしょうか。それを助ける彼女は悪人だろうか。 そして、彼らに逃げ延びてくれと願ってしまう読者(私)は悪人だろうか。
暗号解読(上)(下) サイモン・シン/青木薫訳 新潮社 590+629 2008/07/12 ◎ 暗号の作成と解読について、試みられてきた様々な手法の歴史と、 それらが社会に及ぼした影響が、壮大に語られるノンフィクション。 上巻では、紀元前から中世、そして第二次世界大戦時に至るまで、 支配者や軍によって使われた各種の暗号を紹介する。新たな暗号を開発する人々と、 それを解読する人々との攻防は、極めてスリリング。機密指令の暗号と解読が、 往々にして歴史の流れを大きく変える結果を招いていたことには、かなりの驚き。 下巻では主に、現代情報社会でセキュリティ確保のために用いられる暗号について 紹介する。上巻に比べると議論が抽象的で分かりづらいが、用語としては よく耳にするものが多いだけに、その中身を知ることが出来るのは有り難い。 暗号と言うものが、未来においても重要なものであり続ける意味が分かる。 全体として、専門的な議論を具体的に噛み砕いて説明してあるので、 また実例が多く示されているので、さほど難解ではない。 暗号や解読を考案した人々の人間ドラマとして物語が描かれているので、 大作にも関わらず非常に面白く読めてしまった。
日本の一番長い日 半藤一利 文藝春秋 590 2008/07/01 ○ 1945年8月14日正午から15日正午まで、すなわち終戦の直前に、 日本の中枢部で起こっていた出来事を克明に辿ったドキュメンタリー。 まさに激動そのものの24時間が、1時間刻みで章分けされ、その刻一刻における 政府・軍部・天皇周辺の駆け引きの顛末が、事細かに記されている。 この一大事が、そう簡単に片付く筈がないのは想像できるものの、 まさかここまで一触即発の危機に陥っていたとは、かなりの驚き。 内密の事情を、よくぞこれだけ調べ上げたものと思う。 私の地元・熊谷市は、終戦目前の8月15日の未明になって日本で最後の空襲に 遭っているのだが、もし少しでも早く決着が着いていたならば、 空襲を受けずに済んだのかも知れないと思うと、今さらながら非常に悔しい。
人生ベストテン 角田光代 講談社 467 2008/06/11 ◎ どことなくおかしく、どことなくしみじみとした、6つの傑作短篇を収録。 配管修理で訪れたマンションに住む不幸な顔をした女の生活を垣間見る「床下の日常」。 一人になりたくて旅した筈のイタリアで日本人の母娘に付きまとわれる「観光旅行」。 飛行機で隣り合った女性の失恋話に引き込まれた男の不運の「飛行機と水族館」。 衝動的にマンションを買う女性と実直な不動産屋の営業マンの「テラスでお茶を」。 久し振りの同窓会で初恋の男に再会してしまった女性の「人生ベストテン」。 夫以外の男を一日借りて過ごした不自然でちぐはぐ一日の「貸し出しデート」。 登場人物たちは、何れもちょっと気の毒で、それがちょっとおかしくて、 しかも自分とは殆ど共通点がないにも関わらず、何故か共感させられてしまう。 普通では有り得ないような非日常を、 まるで当たり前の日常のように描いてしまうのが、 しかもさらりと軽妙でありながら、ぐさり突き刺さって来るのが、 角田さんの凄いところ。
茨の木 さだまさし 幻冬舎 1,429 2008/05/26 ○ 確執を残したまま逝った父の形見の古いヴァイオリンを携えて、 現実から逃れるようにイギリスへと旅立った主人公。 彼は、ガイド役を依頼した邦人女性と共に、僅かな情報だけを頼りに このヴァイオリンのルーツを探して動き回るが、手掛かりはなかなか掴めない。 そんな中で彼は、彼女に、今は亡き初恋の人の面影を重ねて見てしまう。 美しく切ない、感涙系の長編小説。さださんの文体は、 やや説明過剰気味なところがあるが(これは作詩での凝縮への反動か)、 その分だけ鮮やかに風景が目に浮かぶような感じ。 これまでの小説同様に、また映画化されることを期待している。 きっと美しいロード・ムービーになることだろう。
太陽と毒ぐも 角田光代 文藝春秋 524 2008/05/25 ◎ 彼・彼女のことが基本的には大好きなのに、どうしても許せない一点がある、 そんな気の毒な恋人たちの姿を描いた11の短篇を収録。 風呂嫌い、記念日狂、買い物依存症、短歌変換癖、迷信狂、プロ野球狂、窃盗癖、 ジャンクフード狂、アルコール依存症、吝嗇、浮気癖、…。 ささやかな価値観の違いが、じりじりと亀裂を拡げて、 いつの間にか当人を追い詰めてゆく。どれも軽い調子で語られる物語で、 傍から見れば「ばっかみたい」なものなのだが、 それでいて心の奥底の急所を突いて来る。 しかも、ここまで極端ではないにせよ、私にも思い当たるような少なからず所もあり、 思わず赤面したり反省したりしきり。
トラや 南木佳士 文藝春秋 1,333 2008/05/23 ◎ 長い歳月を共に過ごしてきた愛猫・トラとの思い出に重ねて、 著者の最も苦しかった時代と、それを見守って来た家族の歳月のことが語らる。 医師と作家の二つの草鞋を履いていた著者が、ついにパニック障害から鬱病を発症し、 そんな中でたまたま居付いてしまった野良猫を飼い始める。 その小さな存在は、著者を自死への誘惑から救ってくれると共に、 家族にとっても間違いなく心の支えになっていた。 そして著者が老境を意識し始めたある日、ついに老猫との別れの時がやって来る。 私の家でも猫を飼い続けていることもあり、 最後の方では読んでいてふいに涙がこぼれてしまった。 著者ならではの、愛おしむような淡々とした文体が、私は非常に好き。
そうか、もう君はいないのか 城山三郎 新潮社 借1,200 2008/05/18 ○ 作家が、最愛の亡き妻について思いの丈を綴った本。 運命的としか言いようのない最初の出会いから、奇跡的な再会と結婚、 それから共に過ごした長い歳月のこと、そして最期の時を迎える日まで、 大切な思い出が、切々と語られる。 熱烈なラヴレターと言ってもよいような文章で、本当に奥さんのことが 好きで好きで仕方なかった、その想いが全ページから溢れ出ているよう。 著者の逝去後に発見されたバラバラの遺稿から構成されたものなので、 内容的にはややまとまりがなく、文体も洗練されてはいないが、それがかえって 妻を亡くした著者の心の揺らぎの振幅を表しているような気さえする。
夕凪の街 桜の国 こうの史代 双葉社 476 2008/05/16 ○ 戦後十年を経て、なお街も人も原爆の後遺症に覆われたた広島を舞台に、 被爆者である一人の女性が被った残酷な運命を記した「夕凪の街」。 それから三十数年を経た昭和末期に、 女性の姪に当たる女の子の姿を描いた「桜の国(一)」。 更に二十年近くを経た平成の現代に、成人した女の子が、 母や父や祖母や伯母のことを深く知る「桜の国(二)」。 以上、時系列での三部構成。 原爆が題材だが、直接的な被害の描写が(恐らく意識的に)避けられているため、 全体としては穏やかな印象。だからこそ一層、 「夕凪の街」の主人公が見舞われる悲劇が、じわじわと深く染み入って感じられる。 実は、マンガの本を自分で買ったのは、これが初めて。 「夕凪の街」の最後など、マンガならではの表現方法が確かにあることを実感。
君のためなら千回でも(上)(下) カーレド・ホッセイニ/佐藤耕士訳 早川書房 660+660 2008/05/14 ◎ まだ平和だった1970年代のアフガニスタン。 新興住宅地に住む裕福な家庭の息子アミールと、その使用人の息子ハッサンは、 主従関係を越えた絆で結ばれていたが、ある出来事をきっかけに 二人の心の間には深い溝が出来てしまう。 それから二十余年を経て、アメリカに亡命していたアミールは、 祖国に残ったハッサンの運命を思いがけず知ることになり、 彼は大きな決断を迫られるのだった。 アフガニスタンと言う国が見舞われた悲劇が、 幼い二人の少年の運命と密接に関わっているので、 他人事でない出来事として伝わって来る。 その中で、どんなことがあろうとも揺らがない、ハッサンが寄せる全き信頼の、 何と美しいことか。 一方で、それに応えられなかったアミールの心中は、何と苦しかったことか。 全てが幸福でないのの、確かに一筋の光が差し込む結末には、涙を抑えられず。
花降る日 有元利夫&容子 新潮社 2,600 2008/05/06 ○ 画家・有元利夫さんの妻であり、ご自身も美術家である有元容子さんが、 在りし日の利夫さんとの思い出を綴ったエッセイ集。 最も身近にいた人であり、最大の理解者であっただけに、 利夫さんの飾らない人間像が魅力的に浮かび上がって来る。 巻末には、利夫さんの14年間に渡る日記を抜粋。 中学三年から、長い浪人を経ての芸大時代、サラリーマン兼業時代、 そして退社して専業画家となる決断の頃まで、 ご本人の内面がストレートに綴られていて、 こんなのを他人に読んでしまってよいのかな、とちょっと悪い気も。 更に、立体作品の写真(カラー約30ページ)やデッサン(モノクロ)などが 多数収録され、これらは他の本ではあまり紹介されていないものなので貴重。
評伝 有元利夫 早すぎた夕映 米倉守 青月社 1,000 2008/04/29 ○ 画家・有元利夫の逝去直後の1986年に刊行され、 今年になって文庫の形で復刊された本。 有元さんの生涯を辿りながら、 美術評論家ならではの専門的な視点での作品分析を展開して行く。 ただ、文章はやや回りくどいところがあり、 一つの題材毎に大量の比喩や引用がちりばめられているため、 本の厚さ(300頁超)の割に得られる情報は多くない。 しかし、生前の有元さんと交友があった人だけに、 今まで知らなかった身近な有元さんの姿を知ることができるのは喜び。 巻末に、著者と、有元容子さん(有元利夫の妻で画家)、 小川貞夫さん(彌生画廊・小川美術館館長)による鼎談(2003年)を収録。
白蛇教異端審問 桐野夏生 文藝春秋 借476 2008/04/23 小説家・桐野夏生さん初のエッセイ集。 エッセイ、日記、書評、映画評、旅をテーマにしたショート・ストーリー、評論など、 小説以外の分野での12年間の仕事が寄せ集められている。 著者ご自身が「苦手」と語っているように、エッセイは(小説に比べると) やや文章に冴えがない気もするが、ご自身の考えをかなりストレートに、 時には辛辣に書いているので、小説では直接には分からない、 著者の人となりがよく分かる気がする。 この本のクライマックスは、表題作にもなっている、 自作品への無責任な批評に対する反論。著者の怒りは相当なもので、 公の場でここまで書いてしまって大丈夫なのか、と心配になる程。 しかしその中から、著者が自身の仕事に対してどれだけ誇りを持って、 どれだけ真剣に取り組んでいるかが、よく伝わって来る。
蟹と彼と私 荻野アンナ 集英社 借1,890 2008/04/19 末期癌に侵された高齢の恋人と、付き添う中年の主人公との、壮絶な闘病記。 刻々と深刻化する容態や病状を、身近で至近距離で見たままに、 生々しく具体的に書いてあるので、読んでいてなかなか辛いものがある。 しかし一方で、空想や妄想の場面を入り混ぜたり、落語っぽい口調を織り交ぜたり、 わざと滑稽な場面に仕立てたり、意識的に重苦しさを緩和しようとしている。 但し個人的には、これが読みづらさの一因になっているようにしか思えない。 それにしてもcancer(癌)の語源がcancer(蟹)だったとは知らなかった。
その名にちなんで ジュンパ・ラヒリ/小川高義訳 新潮文庫 借705 2008/03/18 ○ アメリカで異邦人として暮らすインド人の父母とその息子と娘、 この家族の数十年に渡る激動の歳月。 学者である父と、見合いで結婚した母。 二人は孤立無援でインドからアメリカに移住し、やがて生まれた息子に、 父は思い入れを込めて「ゴーゴリ」と名付けた。 しかし彼は、生まれ育ったアメリカ社会に馴染む一方で、 父母の守ろうとするインドの習慣や価値観に反発を覚え、 そして同時に自身の名前にも違和感を強めてゆく。 そしてついにアメリカを自身の身の置き所として選ぶが、しかしベンガル人と言う 自身の出自は、決して意識の底から捨てられるものではなかった。 インドの風習や習慣が、アメリカの生活スタイルとの対比によってよく分かると共に、 異国で暮らす人々が多かれ少なかれ体験するであろう心の揺らぎがよく伝わって来た。 異文化の中に身を置いてこそ初めて、普段なら意識しない 自分自身の根源を意識するのかも知れない。
とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起 伊藤比呂美 講談社 借1,700 2008/03/14 カリフォルニアに居を構える著者が、日本に住む老いた父と母の介護や、 再婚した外国人の夫との関係、多感な時期にある娘との関係、 自身の老いの自覚などを通じて、生老病死について考えを巡らせる。 そしてその思索の過程を、赤裸々に告白している。 文体は極めて独特で、落語のような口上風の口調あり、英語の直訳調あり、 詩的な言い回しあり、下品の一歩手前のエログロ系あり、 なので最初は少々読みづらいが、 徐々に慣れて来ると文書の軽快なテンポに乗れるようになった。 誰でもいつかは向かい合わなければならない、「老い」の問題。 私はまだ実感はないが、著者のようにジタバタともがきながら、 自分の問題として受け入れてゆくことになるのだろう。 そこにはもはや、綺麗事も理屈も何もない、ドロドロした現実だけがあるのだろう。
私の男 桜庭一樹 文藝春秋 借1,476 2008/03/05 震災で肉親を喪った女の子と、彼女を引き取って養女とした遠縁の男。 犯罪の気配と、それ以上に禁断の気配が漂う、父と娘との15年の歳月の物語。 章ごとに一人称の主観を変えながら、しかも現代から過去へと時間を遡って行く中で、 この二人の間にあるただならぬ関係が、次第に詳らかにされてゆく。 ただでさえ異常に倒錯した世界が、時系列を逆行することで劇的に増強されている。 好き嫌いで言えば、正直言って好きな作風ではなかったが、 作品の持つアクの強さは確かに感じた。 生理的不快感と言ってもよいような、強烈なインパクトがある。 良かれ悪しかれ、いかにも最近の芥川賞らしい作品とも思う。
出発は遂に訪れず 島尾敏雄 新潮社 590 2008/02/29 島尾敏雄の短篇小説を九つ収録。この作家の持つ作品世界が一通り網羅されている。 魚雷艇の特攻隊長として待機したまま終戦を迎えた実体験によるもの、 心を病んだ妻や知能障害のある娘との生活を描いたもの、 そして強迫観念に駆られた夢と妄想ともつかないもの。何れも重く息苦しく、 しかも自身の醜い内面を赤裸々に露にしている。 作者自身も、これを書くことで、心が開放されるよりも、 むしろますます追い詰められてしまったのではないか、と言う気さえする。 読んでいて決しておもしろいものではなく、正直言って個人的にはあまり好きでは なかったが、この作家の個性的な特異な作風を知ることはできた。
須賀敦子全集第5巻 須賀敦子 河出書房新社 950 2008/02/11 ○ 文庫版『須賀敦子全集』の最終配本で、主にイタリアの現代詩の翻訳を収録。 『イタリアの詩人たち』は、須賀さんが選んだ5人の詩人について、 その生き方を解説しつつ作品を紹介。 『ウンベルト・サバ詩集』は、須賀さんが最も敬愛した詩人である ウンベルト・サバの作品群から、須賀さんが選んだ作品が翻訳されている。 残念ながらイタリア語の感覚が分からない私には、 これらの詩の良さは必ずしも伝わって来ない。 散文詩はまだしも、韻文詩となると、 やはり翻訳のみで味わうのは少々苦しい気がする。 しかし何れにせよ、原文の味わいを少しでも伝えようと工夫され、 練りに練られた訳文であることはよく分かる。 巻末に添えられた池澤夏樹による解説は秀逸。 本巻を以って、文庫版『須賀敦子全集』全8巻が完結。 全作品を読破したこと、全作品を手許に置けることの嬉しさは格別。
精解 富岡日記 和田英/今井幹夫編 群馬県文化事業振興会 2,500 2008/02/08 ◎ 明治の最初期、明治政府による近代化政策の代名詞と言える群馬・富岡製糸場に、全国から集められた若い女性たち。彼女たちは、ここで製糸技術の全てを習得して、帰郷した後でそれを地元に伝える、模範生としての任務を負っていた。 この本は、その中の一人で、信州から遣わされた和田(旧姓横田)英さんが、当時のことを日記風に回想したもの。貴重な歴史資料としての価値のみならず、読み物としても非常に面白く興味深いものになっている。 明治40年の文章なので、最初はやや読みづらい感じがしたが、読み進めるうちにすぐに慣れてしまい、むしろ百年以上も昔の話とは思えない程、新鮮な出来事として感じられた。 編者による的確な注釈が随所に織り込まれている上に、巻末には概説として富岡製糸場の歴史的意義や経緯について詳しい解説がなされているのが有り難い。
作家の犬 コロナ・ブックス編集部 平凡社 借1,600 2008/01/27 ○ 作家・美術家・漫画家・映画監督など25人(何れも故人)と飼い犬との関係を、豊富な写真と文章によって紹介する本。文章を書いているのは殆どが配偶者や子供などの肉親なので、身近で見ていた人ならではのエピソードを聞くことができる。 溺愛、同士、家族、弟子、部外者など、犬との関わり度合いは人によって千差万別だが、何れにせよ犬の存在が彼らの生活そのものにとって大きな意味を持っていることは確か。 巻末には、犬にまつわる本のガイドが付録され、小説やエッセイから美術書や写真集に至るまで多様な本が紹介される。
犬の話 角川書店編 角川書店 借438 2008/01/26 ○ 近現代の作家が飼い犬について書いたエッセイを集めた本。収録作家は、幸田文、小沼丹、池内紀、群ようこ、小川洋子、向田邦子、伊集院静、佐野洋子、近藤鉱一、江藤淳、景山民夫、江國香織、鴨居羊子、椎名誠、近藤啓太郎、庄野潤三、武田百合子、安岡章太郎、遠藤周作、阿川弘之、の以上20人。(太宰治の「畜犬談」が入っていないのが残念。) 大半がほんの数ページの小品(あるいは抜粋)だが、この中にもそれぞれの作家の作風が現れているのが面白い。 犬との幸福な記憶を描いたものも多くあるが、何と言っても心に残ってしまうのは犬との「別れ」を描いた作品。読むうちに、私自身の体験の記憶までもが脳裏に蘇って来てしまった。
犬と私の10の約束 川口晴 文藝春秋 借1,143 2008/01/13 ○ 母が倒れた日に、入れ替わるように家にやってきた子犬。病床の母は「犬との10の約束」を守ることを条件に、犬を飼うことを認めた。その頃は小学生だったその少女が、やがて獣医になるまでの約十年、ソックスと名付けたその犬と一緒に、あるいは離れて過ごした歳月の記憶が語られる。 いかにもと言う感じの物語で、小説としては少々稚拙な感じがあるが、「犬との十戒」を巡る最後の方の場面では、どうしても涙を抑えられなかった。 我が家も、物心付いた頃から現在に至るまで、ずっと犬(すべて雑種)を飼っているため、この十戒の言いたい所は凄くよく分かる。
有元利夫 女神たち(新装版) 有元利夫 美術出版社 4,800 2008/01/09 ◎ 私にとって最も好きな美術家の一人、有元利夫さん(1946-1985)の画文集。 多数の絵画作品は勿論、多くのデッサンや、立体作品の写真、更には楽譜に至るまで、有元さんの仕事の全貌が収められ、加えて自宅やアトリエでの有元さんの写真も含まれている。 B4版の大きな本で、図版も大きく収録されており、有元さん独特のわざと風化させたような画面の地肌の感じもよく分かる。 有元さんご自身による文章が多く収録されているのも魅力で、自身の作品のことや、影響を受けた芸術作品のこと、制作に対する姿勢などが、肩肘張らない文体で綴られている。 現代的でありながら古風でもあり、孤立しているようで孤独感はなく、どこか静かな音楽が漂っているような、独特の魅力を放ち続ける作品の数々。すぐ手元に置いて、いつでも取り出せるようにしておきたい、そんな一冊。
三面記事小説 角田光代 文藝春秋 1,238 2008/01/06 ○ 実際に起きた事件の短い新聞記事を元にして、想像力を膨らませ事件の動向や当事者たちの心理を描き出した、6つの短篇小説。 不倫のもつれ、心変わり、捩れた愛情、叶わない憧れ、嫉妬心、介護疲れなど、勿論これらはフィクションであって実際の事件とは異なるのだが、僅かな記事からこんな風に設定や人物を作り上げ、リアルな物語を仕立ててしまう力量は見事。そもそも、こんな発端から小説化してしまう発想自体が天才的。 こうして見ると、一見凶悪な犯罪のようであっても、それぞれの当事者にとっては切羽詰った状況が展開されていて、時には共感あるいは同情させられてしまう。しかも、いかにも身近な出来事のように描かれているので、どうも他人事とは思えない。自分を含めて誰でも、いつこんな事態に陥るか分からないな、とさえ思う。
柔らかな頬 桐野夏生 講談社 借1,800 2008/01/05 ○ 不倫相手に熱を上げるあまり「子供を捨ててもいい」との考えが脳裏かすめた翌朝、 5歳の娘が失踪。懸命の捜索の果てに捜査は打ち切られたが、 それでも娘の行方を探し続ける女の執念は、愛人との関係はおろか、 ついには自身の家族までも崩壊させてゆく。 一方で、不治の病を患った元刑事は、自身の最後の仕事としての衝動に 突き動かされるように、女の娘探しに協力を申し出る。 手掛かりを求めて北海道の寒村を彷徨う二人、その絶望的な旅路は、 殆ど狂気の様相を呈していた。 数多い登場人物それぞれの状況が克明に記され、その中で徐々に明らかになる 事実の展開は極めてスリリング。 そしてようやく二人が辿り着いたのが、開放の地点であるのは間違いない。 ただ、最後に犯人が特定されないまま終わってしまうのは、すっきりしない。 これが著者の意図だとは理解しつつも、どうしても納得が行かない感じ。
今、何してる? 角田光代 朝日新聞社 500 2008/01/04 ◎ 恋愛や本や旅にまつわる、4部構成の連載エッセイ。 第1部「恋愛プリズム」では章毎に決めたキーワードを軸に、 第2部「恋の言葉に溺れるな!」では本から引用した一節を題材に、 恋愛論を展開。一般論でなく、 あくまでもご自身の経験や見聞について書かれている。 しかも、気軽な文体の中で、意味深い内容をさらりと言ってのけるのは流石。 第3部「旅と本の日々」は、旅にまつわるエッセイ。 著者の旅先の範囲の広さと多彩さは驚くべきもので、 著者の行動力と大胆さには羨望の念を覚える。 第4部「本と一緒に歩くのだ」は、書評の枠組みを借りたエッセイ。 章毎に数冊の本が紹介されているが、あくまでも角田さんの恋愛談の中に巧みに 組み込まれていて、しかもそれぞれの本のポイントはをしっかりと紹介されている。 どの文章も、飾り気のない等身大の著者が感じられて、共感度が高い。

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(紺野裕幸)

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