
「ここしばらく、自身の使命であるところの新約聖書の訳注付きの翻訳に 集中的に取り組んでいる。そこでつくづく思い知らされるのが、 各々の福音書は皆同じ意向で書かれていると言う 学問的にはとうに過去のものとなった考え方が、 最近の翻訳書にさえしっかり紛れ込んでいること。 マルコの訳文にマタイの思想を入れ込んでしまい すっかり意味が変わってしまった箇所など、枚挙にいとまがない。 自分たちでは葬り捨てたつもりの考えが、実は深く染み付いてしまっていて、 それが無意識的に露呈されてしまうパターンである。」
「これは新約聖書学に限った話ではない。 現在あのようなチンピラファシスト政治家を多くの人々が支持している背景にも、 実は同じことが当てはまるのではないか。」
「ある程度に歳が行った人はもう変わらない、と言う思い込みは間違っている。 まあサボりたくなる気持ちは分かるけれども、歳が行っても本人の意思次第で 進歩は続けられる。私自身も、最近になってようやく新約聖書の翻訳に見合った ギリシャ語の実力が具わってきたと感じている。」
「これからは翻訳と註解の執筆に全てを捧げるつもりなので、 それ以外のことについては不義理を重ねることになるが、お許しを。 このような場で皆さんにお目にかかるのも、恐らくこれが最後になると思う。 その代わりに本を楽しみに待って欲しい。」
父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。
金木の生家では、気疲れがする。 また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。 肉親を書いて、さうしてその原稿を売らなければ生きて行けないといふ 悪い宿業を背負つてゐる男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。 所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、 あちこちうろつき、さうして死ぬのかも知れない。
この卵味噌のカヤキなるものに就いては、 一般の読者には少しく説明が要るやうに思はれる。 津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、 牛のカヤキ、鳥のカヤキといふ工合に呼ぶのである。 貝焼の訛りであらうと思はれる。 いまはさうでもないやうだけれど、私の幼少の頃には、津軽に於いては、 肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用ゐてゐた。 貝殻から幾分ダシが出ると盲信してゐるところも無いわけではないやうであるが、 とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなからうかと思はれる。 私たちは皆、このカヤキを食べて育つたのである。 卵味噌のカヤキといふのは、その貝の鍋を使ひ、 味噌に鰹節をけづつて入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、 実は、これは病人の食べるものなのである。 病気になつて食がすすまなくなつた時、 このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。 けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがひなかつた。
たけは又、私に道徳を教へた。 お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。 火を放けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、 めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。 血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、 到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。 嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、 と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のやうな黒い鉄の輪のついてゐるのがあつて、 その輪をからから廻して、 やがて、そのまま止つてじつと動かないならその廻した人は極楽へ行き、 一旦とまりさうになつてから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、 とたけは言つた。 たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻つて、 かならずひつそりと止るのだけれど、 私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。 秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つて その金輪のどれを廻して見ても 皆言ひ合せたやうにからんからんと逆廻りした日があつたのである。 私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。 日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。
窓から首を出してその小さい駅を見ると、 いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、 大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、 眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、 美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、 まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。 少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。 少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。 まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。 こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。
陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、 若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。 他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。 坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、 このやうな大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ 之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なほ信ずるに足らず。 津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。 東北の夏祭りの山車《だし》と思はば大過なからん歟。
その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。 けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。 その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、 青森湾の向うに夏泊岬が見え、 また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。 東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、 怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、 この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、 塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。
その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、 「蟹田つてのは、風の町だね。」と私は、 れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしてゐたものだが、 けふの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑ふかのやうな、おだやかな上天気である。
ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落
ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。
あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。
それは、もはや、風景でなかつた。
風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、
謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、
高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やつぱり檻の中の猛獣のやうな、
人くさい匂ひが幽かに感ぜられる。
昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、
すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、
この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。
それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、
たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。
でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、
へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、
たけの小屋に連れて行き、
「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、
きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、
子供たちの走るのを熱心に見てゐる。
けれども、私には何の不満もない。
まるで、もう、安心してしまつてゐる。
足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。
もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。
平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。
もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。
私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。
かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。
まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、
津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。
私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。
さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。
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