雑記駄文

Monologue
心に移りゆくよしなし事を…

「ルオーとマティス展」特別講演会 聴講記
汐留ミュージアム「ルオーとマティス展」開催の特別講演会を、 事前に応募して、運良く拝聴できた。
前半は、ルオー財団理事長でルオーのお孫さんにあたる ジャン=イヴ・ルオー氏(男性)のお話。 「わが祖父、ジョルジュ・ルオー」と題して、多数の写真パネルを駆使しながら、 祖父ルオーの人となりを伝えようとしていた。
後半は、今回の企画に最初期から携わっているパリ市立近代美術館学芸員の ジャックリーヌ・ムンク氏(女性)による、「ルオーとマティス 往復書簡」。 この企画が始まった背景から、展示構成に至るまでの経緯が、 ざっくばらんに語られた。
残念ながら、肝心のルオーとマティスの間でやりとりされた手紙について あまり触れられなかったため、両人の関係については必ずしも よく分からなかったものの、展覧会の裏話を聞かせてもらえたのがよかった。
何れにせよ、このような貴重な機会を、 関係者でも専門家でもない私のような者にも提供してくださったことに、 心から感謝している。
(2008/03/08 松下電工汐留ミュージアム)

年賀状 2008年
(2008/01/01)

前進座公演「銃口」
三浦綾子さんの最後の長編小説『銃口』を舞台化したもの。 実は、きちんとした演劇を生で観たのは初めてのことだったのだが、 演劇と言うのも実によいものだなとつくづく思った。
戦時中の北海道で、治安維持法の罪で収監され、 釈放後に満州に召集された小学校教師の姿から、 昭和と言う時代をしっかり見つめ直そうとする、重厚な物語。
人員と装置が限られていることによる演出の工夫が見事。 制約を逆手に取って、むしろ観客の想像力に働きかけるような構成には、 つくづく感心させられた。 それによって、原作の持ち味を何ら損ねないどころか、むしろ凝縮しながら、 三浦綾子さんのメッセージを確実に伝えているのである。
何よりも、俳優さんたちが目の前で熱演している臨場感は、 やはり映画とは違った素晴らしさがあり、非日常的なレベルの感動に襲われた。
演劇も、今後は機会を作っていろいろ観てみたいと思う。
(2007/11/16 熊谷会館)

年賀状 2007年
(2007/01/01)

田川建三 東京講演会 聴講記
田川建三さんの講演会が都内で行われ、 幸運にも拝聴することができた。 著作はかなり読んでいるつもりなのに、 これまでお姿を拝見したこともなければお声を拝聴したこともなかったので、 今回ようやく念願が叶ってそれだけでも感激もの。 講演内容も非常に深く非常に鋭いものであった。
会場は早稲田大学文学部の教室で、大学とは関係なく、 田川さんの旧友による企画。 東京での講演は約20年振りとのこと。 来場者はかなり多く、事前に用意された資料が足りなくなる程。 但し来場者の平均年齢は少々高そうだった。
演題は、「思い込みのしつこさ」について。
「ここしばらく、自身の使命であるところの新約聖書の訳注付きの翻訳に 集中的に取り組んでいる。そこでつくづく思い知らされるのが、 各々の福音書は皆同じ意向で書かれていると言う 学問的にはとうに過去のものとなった考え方が、 最近の翻訳書にさえしっかり紛れ込んでいること。 マルコの訳文にマタイの思想を入れ込んでしまい すっかり意味が変わってしまった箇所など、枚挙にいとまがない。 自分たちでは葬り捨てたつもりの考えが、実は深く染み付いてしまっていて、 それが無意識的に露呈されてしまうパターンである。」
「これは新約聖書学に限った話ではない。 現在あのようなチンピラファシスト政治家を多くの人々が支持している背景にも、 実は同じことが当てはまるのではないか。」
休憩なしの2時間半ほど、実例を提示しながら、理路整然と明快に率直に、 力強く快活な口調で語られた。 何と熱く(実際人が多いせいか室内は本当に熱かった!)、 何と精力的な人なのだろうか。 全く歳を感じさない。著書から受ける印象通りの人だった。 私淑の念が一層強まったのは言うまでもない。
質疑応答の中で印象的だった言葉。
「ある程度に歳が行った人はもう変わらない、と言う思い込みは間違っている。 まあサボりたくなる気持ちは分かるけれども、歳が行っても本人の意思次第で 進歩は続けられる。私自身も、最近になってようやく新約聖書の翻訳に見合った ギリシャ語の実力が具わってきたと感じている。」
私は<あの人はあの歳だからどうせダメだ>などと すぐに見切ってしまう傾向があり、そういう思い込み自体が正しくないことを 認識させられると共に、自分自身も田川さんを見習って <前進あるのみ>との思いを新たした次第。
最後に田川さんから一言。
「これからは翻訳と註解の執筆に全てを捧げるつもりなので、 それ以外のことについては不義理を重ねることになるが、お許しを。 このような場で皆さんにお目にかかるのも、恐らくこれが最後になると思う。 その代わりに本を楽しみに待って欲しい。」
またとない貴重な機会に田川さんに直接お会いし お話を聴くことができたことを、本当に幸せに思っている。
[参考] 田川さんご本人による要旨
(2006/02/04 早稲田大学戸山キャンパス)

年賀状 2006年
(2006/01/01)

第6回NHKアジア・フィルム・フェスティバル「パネル・ディスカッション」 聴講記
「NHKアジア・フィルム・フェスティバル」のパネル・ディスカッションを 聴講してきた。貴重な機会だったので、一言報告を。
出演は、小栗康平(映画監督)、佐藤忠男(映画評論家)、 田中千世子(東京国際映画祭)、キム・ジソク(プサン国際映画祭)、 チョン・スーワン(チョンジュ国際映画祭)、掛尾良夫(キネマ旬報総研、司会)、 根本理恵(通訳)、以上の各氏。 オブザーバとして高野悦子さん(岩波ホール)が列席されていた。
実際の内容は座談会と言った感じのもので、 全体としてまとまりのある内容とは言えなかったが、 個々には色々と興味深いお話を聞けた。 思い出せるままに少し書いておく。

その他諸々、予定時間を大幅に超過しての約2時間15分、 アジア映画の話題なので全く退屈することなく楽しめた。
ちなみに、根本理恵さんの名前と顔が一致したことも、今回の収穫。 韓国映画の字幕翻訳で名前をよく見掛けていた人と、 韓国俳優の通訳として顔をよく見掛けていた人が、ようやく結び付いた。
(2005/12/17 NHKみんなの広場ふれあいホール)

年賀状 2005年
(2005/01/01)

年賀状 2004年
(2004/01/01)

年賀状 2003年
(2003/01/01)

「沈黙」「女の一生」を歩く
(1) 序
長崎に行ってきた時のことを書いておこうと思う。 主目的は「遠藤周作文学館」で、 ついでに切支丹関係の場所をいくつか巡ってきた。 長崎は、学生時代の友人連中と卒業旅行に行って以来、ちょうど10年ぶり。 思い立ったのは連休のわずか1週間前のことで、 混雑時期だったが飛行機+宿のフリープランを何とか確保し、 遠藤周作『沈黙』『女の一生 1部/2部』(必読の傑作)、 片岡弥吉『浦上四番崩れ』など手持ちの長崎関係の本を慌てて再読し、 にわか準備で出発することとなった。
羽田発13:45、長崎空港着15:40。 長崎空港の扉を出ると、海の匂いがした。 それもそのはず、この空港は大村湾に浮かぶ島の上にあったのだった (後で知ったことだが)。 長崎駅行きのバスに乗り、ガイド本を復習(?)していると、 隣席のおばさんから「観光ですか」と声を掛けられた。 その方も、私と同じ2泊3日の日程で、ご夫婦で長崎観光とのこと。 双方の案内本を見比べたりしつつ話している内に、 みるみる窓の外が薄暗くなり、やがて土砂降りの雨になってしまった。 「長崎は今日も雨だった」ですね、などと冗談にもならない状況である。 しかしそのおばさん曰く、天気予報によれば天気は悪くならないはずとのこと。 果たして長崎駅に着く頃には、幸い大雨は嘘のように霧雨になっていた。 長崎駅前のバスターミナルでご夫婦に礼を言って別れたが、 何となくよい旅の予感がした。

(2) 日本二十六聖人殉教地
まず目指したのは、日本二十六聖人殉教地。 長崎駅に向かって右手後方、急な坂を登り詰めた高台が公園(西坂公園) になっていて、 舟越保武さん制作による「日本二十六聖人像」が建っている。 1597年2月5日、外国人宣教師6名や子供3名を含む信徒26人が 見せしめのために処刑されたのが、まさにこの場所とのこと。 その26人を模った像は、思っていたよりかなり大きいものだ。
とりあえず像の裏手の併設の記念館(開館時間に何とか間に合った) へと向かう。 記念館の中は薄暗く静粛そのもので、 受け付けに女性と神父さんと思しき人の他、客は他に誰もいないようだ。 展示は、当時の信徒が非常に大切にしていたであろう宗教的な宝物や 手紙や写真などの遺品の数々、美術品(これは現代のもの)など。 『女の一生』に出てきた「三尺牢」の現物(の複製)もあった。 こんなモノに何ヶ月も押し込めるとは、ひどいことを考えたものだ。 館内の随所には、聖人像が(しかも生々しく彩色されたものが)配してあって、 それが薄暗い中に突然出現するものだから、何度もギョっとさせられた。 足早に眺めていたつもりでも、あっと言う間に閉館時間になってしまい、 受付に目礼して館を出た。
さて、改めて二十六聖人記念像と対面する。 手を合わせる人、何かを語らんとする人、法悦の表情すら浮かべる人、 子供や数人の外国人、26人はそれぞれ個性的で、 つくづく気高く、全体としては厳粛な面持ちである。 この像と向かい合った時の気分について息子の舟越桂さんが書いていた文章を 読んだことがあったが、確かに崇高で、それに美し過ぎる程に美しい像である。 しばらくじっと一人で像に向かい合っていたが、 地元民らしきカップルの声が近づいてきたのを機に、坂を降りることにした。 手に持っていた記念館の入場券に、曰く「愛は死よりも強し」。

(3) 自由飛行館
思案橋付近、崇福寺の向かいにある「自由飛行館」。 何ということもない喫茶店であるが、 さだまさしファンとしては是非来たかった場所。 小説『精霊流し』にも出てくるので、さだファンならずとも是非どうぞ。 壁には、「夏・長崎から」野外コンサートに参加したゲストたちのサインがある。 特に、加山雄三さんの海の絵や、原田泰治さんの田舎の風景は、 即興なのにあまりに見事。 ただ、店内では常連客らしき人が賑やかに歓談していて、 決して迷惑でもなかったものの、 部外者には必ずしも居心地はよくはなかったのも確か。
まだ時間に余裕があるので、浜町アーケード街を散策。 活気があってとてもよい感じの町並みである。 ふと、昔住んでいた名古屋の、大須のアーケード街を思い出したりもした。 しかしアーケードは意外に短く、間もなく川岸に至り、 せっかくなので川沿いに歩いてみた。 川には由緒ありそうな石橋がいくつも並んでいる。 随所に案内板があるのが有り難い。 川端に揺れる柳もいい雰囲気だ。犬と散歩する地元の人も多い。 かの眼鏡橋は、重厚にライトアップされていた。 10年前にここで友人たちと撮った記念写真のことを思い出した。
ちなみに投宿先は、モントレ長崎。大浦海岸通り停留所からすぐ見える。 建物の造りから、部屋のインテリアに至るまで、 ポルトガル風(?)の装飾が実によい雰囲気。 エレベーターの階数表示の凝りようには感動すら覚えた。 しかも部屋の窓からは湾岸から海を隔てて稲佐山が見える。 1Fにはオイルランプのミュージアムもある(実演がないのが惜しい)。 このホテルはおススメと思う。
地図で見ると、オランダ坂がすぐそばなので、散歩がてら歩いてみることにした。 ここも10年前に来た所。ピンぼけした写真の記憶が蘇る。 しかし、街灯が全然ないせいもあって、まだ深夜でもないのに、 辺りは怖いほどに真っ暗。 自分が不審者のようで、しかも薄気味悪く、早々に退散した。

(4) 黒崎教会
2日目。猛烈に早起きして朝食を済ませ、路面電車で長崎駅へ。 「大瀬戸・板ノ浦行き」のバスに乗って、目指すは外海町。 『沈黙』の舞台・トモギ村の原型となった場所である。 バスに揺られること1時間強、黒崎教会前で下車。 丘の上に仰ぎ見るレンガ造りの教会が、カトリック黒崎教会である。 急な石段を登ると、空色の衣装を纏ったマリア像が手を拡げて出迎える。 この像も彩色が生々しい。 この場所に佇む遠藤周作さんの写真を、何かの本で見た記憶がある。
宗教弾圧下の1571年にこの地で持たれた信徒の教会が起源で、 以後の波乱の中で長い時間を掛けて建立した教会の由。 教会には誰もいないようで、当然開いてはおらず、 中を拝観することも能わず。 建物の周囲を散歩するにとどまったが、 観光地でもないし、私は信徒でもないので、仕方あるまい。 付近には、切支丹を祀った神社・枯松神社があるとのことだが、 徒歩では厳しそうな距離のため、今回は断念。

(5) 遠藤周作文学館
黒崎教会から国道沿いに歩いて、 今回の旅の主目的・遠藤周作文学館を目指す。 地図の上ではそれほど遠くないように思えたのだが、 思いのほか距離はあって、しかも登り坂。 行けども行けども文学館は見えて来ない。 更に悪いことには、小雨さえ降り始めてしまった。 30分以上歩いただろうか。 ようやく目指す文学館らしき建物が見えてきた時には、本当にホッとしたものだ。 文学館は、海を見下ろす岸壁の上、絶好のロケーションにあって、 逆台形(?)の屋根が特徴的。
入場料を払って館内に入ると、 エントランスホールのステンドグラスが綺麗。 ホール右手の常設展示室では、 遠藤さんの書斎を再現したコーナーから、生涯・諸著作、 「沈黙」に関する展示へと続く。 正直を言えば、展示資料の点数は多くはなく、 以前の世田谷文学館での遠藤周作展の方が、内容的にはむしろ充実していた。 但し、場所が場所だけに、『沈黙』に関する展示パネルは充実。 解説展示によれば、沈黙のラストでロドリゴが改心戻しを請うていたこと。 文語体の部分をイイカゲンに読んでいたせいもあって、全然知らなかった。
展示室の突き当たりがガラス張りの小部屋になっていて、 一面に海を見下ろす格好になっている。 小雨降る曇天の下、青と言うより黒に近い海面に、 いやでもイチゾウとモキチの殉教の場面が思い出された。
もう一つの展示室では、企画展示で、遠藤さんの蔵書(創作資料)と、 交友関係の写真などが展示されていた。 執筆の参考にした、あるいは契機となった、かなりの量の蔵書が展示されている。 また写真では、主宰していた劇団「樹座」でおどける遠藤さんの姿が見られる。
館内には他に開架閲覧室があり、関連図書やビデオライブラリを閲覧できる。 ビデオの目録を何となく見ていて、 期せずしてさだまさしさんの名前を見出した時には、ちょっと驚いた。 曰く、「<遠藤周作トーク&トーク 第22回 ゲスト・さだまさし>1981年3月7日/TBS」 早速テープを拝借して見てみた。 遠藤さん対さださん、面白くなかろう筈がない。
遠藤さんと女性アシスタントがゲストを迎えて歓談するTV番組に、 さださんがゲストとして呼ばれた時の模様であった。 創作に対する姿勢などのマジメな話から、かなりバカバカしい話まで、 ご両人はすっかり意気統合。 どうやら遠藤さんは直前にさだコンサートにお出掛けになった模様で、 さださんの歌と話術を絶賛しており、 一方さださんは遠藤さんの主催する素人劇団「樹座」への入団を強引に迫ったり、 実に楽しい内容であった。 こんなところで、敬愛する遠藤さん・さださん両氏の接点を見出すとは、 非常に嬉しいもの。 それにしても、さださんも遠藤さんも、随分と若かったものだ。
館内でついつい長居してしまった。 小さなミュージアムショップで絵はがきと、 遠藤さんのテープやCD(公演録。歌ではない)を購入し、 外に出ると、いつの間にか雨は上がって、むしろ晴天になっていた。 ついでに付設の喫茶室でコーヒーを飲んで、ここを後にした。

(6) 出津(しつ)文化村
次に目指すは「沈黙の碑」。 先ほどの喫茶室の店員さんは、歩いてすぐだと仰っていたが、 結局また結構な距離を歩くことになった。 雨が上がったのがせめてもの救い。
沈黙の碑は、歴史民俗資料館の前方の、小高い場所にあった。 碑文に曰く、「人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです」。 さっきまでの雨が嘘のような晴天で、本当に、海があまりに碧いのです。 先ほどまでいた文学館が、左手の丘の先端に小さく見えている。
傍の外海町歴史民族資料館に入る。 例によって観覧者は私しかいない。 農具・漁具などの民族資料、池島炭坑(ごく最近閉山)の道具、 切支丹関連の資料、出土した土器・石器、更には姉妹都市の紹介など多種多様、 盛り沢山の資料が所狭しと展示してある。 展示室と言うよりは収蔵庫という感じで、 あまり整理されていないのがかえってよろしい。
近隣のド・ロ神父記念館が修繕工事中とかで、 本来そちらにあった資料も、別室でまとめて展示している。 ド・ロ神父は、この地に住まい、生涯に渡って 産業・福祉・土木建築・医療・教育とあらゆる分野で地域の民のために尽くし、 ついに日本の土となったフランス人司祭。 展示された多種多様の遺品を見ると、神父の手掛けた仕事の範囲の広さと深さに 驚かされる。本当に凄い人だ。地元民にも相当に慕われたらしい。
途中から、かなり年輩の女性が挨拶をして入ってきて、 修道女と思しき容姿で、客かと思いきや、ここの職員の様子。 どこから来たのかを問われ、埼玉と答えると、本当に嬉しそうな表情をなされた。 続けて展示を見ていると、ふいにその人から「キョクは今日はやっていますかねえ」 と問い掛けられ、キョク→局→郵便局を意味すると判断するまでに 一瞬の間を要してしまったが、今日は平日なので開いていると思います、 と答えると、また嬉しそうなお顔。 それにしても、なぜ旅行者の私に突然そんなことを聞いたのものか。
資料館の前から出津教会まで、斜面に沿って細い道がひょろひょろと続いている。 この道は、かつて神父ご自身が歩いた道とのこと。 出津教会は、白壁が美しい、割りに大きな建物。 これも神父の設計によるものとのこと。つくづく凄いことだ。 やはり正面にはマリア像が立っていて、他にも塔の上にも聖像がある。 ここにも誰もおらず、そして中にも入れず、ちょっと残念。
ひょろひょろ道を戻り、工事中のド・ロ神父記念館を通り過ぎ、 もう一度「沈黙の碑」を拝観して、 外海の散策を終えることにした。数少ないバスの時間もちょうど近いことだし。
長崎に戻るバスに乗って間もなく、右手に郵便局が見えた。 営業していた。ホッとした。

(7) 出島跡地
長崎市内に戻ってまだ時間があるので、出島跡地を歩くことにした。 今は完全に埋立地の一部になってしまって、島としての痕跡はほぼ皆無だが、 案内板によれば、数十年の計画で当時の出島を復元する (当時の輪郭を復元して水堀で囲む)計画が進行中の由。 楽しみなことだ。完成した時には必ずまたここを訪れたいと思う。 辺りには歴史的建造物などが移築され、公園風になっており、雰囲気はよい。 結構多くの人が散歩している。地元の人も多いようだ。 出島資料館もあって、歴史資料やパネル展示などなど、なかなか見応えがある。
ここから更に、新地中華街へと足を伸ばした。 極彩色の装飾の中華料理店、中華菓子の店頭販売、怪しげな中国雑貨の店など、 こういう所に来ると、ウキウキした気分になる。 さだまさしさんご推薦の江山楼で、ちゃんぽんを食した。 店の風采はかなり豪華でちょっと躊躇したが、値段的にはまずまずお手頃。 非常においしかった。

(8) 大浦天主堂
3日目。またしても早起きして、まず向かったのは、かの大浦天主堂。 『女の一生』の主要舞台である。 宿から歩いたのだが思いのほか近く、開館の8時より前に着いてしまい、 少し待って、栄えある一番乗りを果たしてしまった。 10年前にもここには来たのだが、当時と違って今回は、 ここで起こった信徒再発見事件の重みが幾らかでも分かっているせいもあり、 「マリアさまの御像はどこ」の件の像も、新たに感慨深く見ることになった。 しばらくは案内放送の他は静かだった館内が、やがて急に騒々しくなった。 団体さんのご到着だ。その隙間を縫うようにして外に出た。
案内本によれば、近くにある「南山手十六番館」で、 遠藤さんが『沈黙』を書くきっかけとなった「踏絵」の現物を展示している由。 ここは、1860年に米国領事館として建てられた木造洋館を移設したものだそうで、 1階は土産屋、地下が資料館になっている。 資料館に入ると、またしても観覧者は私一人。 展示室は明るく綺麗で、古のガラス器具や陶器・磁器、グラバー氏の遺品などの他、 切支丹資料もかなり多い。 目当ての「踏絵」も勿論あった。遠藤さんが題材にした旨の説明文も添えてある。 木の枠に銅の彫像が埋め込んであって、磨り減り黒ずんでいて、 いかにも使い込んである、という印象。 しかし解説によれば、踏絵の業務を確かに遂行したかのように見せかけるべく、 当時の役人が、踏絵を火であぶってコゲを付けたりしたこともあった由。 役人のやっていることは、昔も今も本質的に変わっていない模様。
すぐ付近には、旧香港上海銀行長崎支店記念館(長い名前)。 重要文化財になっている歴史的洋館。 3階建てで、中は風格のあるいかにも昔の洋館と言う感じ。 当時の時代資料などが展示されている。 またしても観覧者は私一人かと思いきや、階上には他にも単独見学者が数名いた。 建物のテラスに出ることができて、そこからの港の眺めは絶好である。 2階には喫茶室があって、しかし残念なことについ先日から営業停止の由。

(9) 地元のオジサン
まだ昼食には早いし、 ぶらぶらと道端で地図を片手に思案していると、 バイク(カブ号)に跨ったかなり年輩のオジサンが、 どうしたんだ、と声を掛けてきた。 散策している旨を言うと、この坂を登った辺りを歩くと眺めがいい、 などと地図を指差して地理を説明してくださった。 どこから来たのか聞かれた辺りから、徐々に話題は脱線して、 子供の頃から長崎に住んでいること、当時はこの辺りは海だったこと、 戦争当時の悲惨な様子、無節操な埋め立てを進める役人たちの愚かさ、 若い連中もダメだが年寄りはもっとダメだ、などなど、 道端で原付に跨ったまま、いろいろと話してくれるのであった。 地元の人に親切にしてもらえるのは、本当に嬉しいものだ。 道端で、結局15分以上も話していただろうか。 やがて、よい旅をと言って去って行ったカブ号の荷台には、 苺のパックの箱が山程積み上げてあった。風に甘い香りが漂った。
坂を登ってまもなくの「孔子廟・中国歴代博物館」は、 故宮を思わせる黄色い瓦の堂々たる建物。 併設の中国歴代博物館は、故宮博物院(北京)から借り受けた、 宮廷宝物および古代遺産を展示し、照明を落した館内には荘厳な雰囲気が漂う。 ここは10年振りの来訪。 その時に、中国式の礼拝の方法を教わったことを懐かしく思い出した。
昼食には結局、「四海楼・ちゃんぽんミュージアム」に立ち寄った。 ちゃんぽん発祥の地の由。なかなか大層なビルで、いいような、悪いような。 高層なので窓外の眺めはよろしいが、昼食時なのと、 団体さんが入っているせいもあって、非常に混んでいて騒々しいのが残念。 ちょっとしたミュージアムには、ちゃんぽんの歴史パネルや、 どんぶりなどを展示。入場無料。

(10) 原爆資料館
四海楼前からバスで長崎原爆資料館へ。 非常に気が重くはあったが、長崎に来て、 ここを見ない訳にはいかない気がして、意を決して足を運んだ。 ヒロシマに比べてナガサキは当時の資料が残っていないと聞いていたが、 それでも、その「時」を生々しく伝える遺物の数々や、 随所に用意されたビデオ画面の惨い映像は、正視に耐え難いほど。 展示の構成がテーマ別にうまく整理されていて、 遺品や痕跡物などの情感に訴えるものは勿論だが、 科学的にデータや分析を提示したものも多く、 理性的に原爆の実態への理解を深めさせてくれる。 何れにせよ、質、量共に見応えのある展示で、 出口に辿り付いた時にはドッと疲れを感じた。 建物は近代的で、眺めのよい屋上庭園のような場所もあって、 若いカップルがくつろいでいた。 デートコースに原爆資料館とは、さすがに長崎だなと、ちょっと感心。
浦上天主堂は、原爆資料館から徒歩10分ほど、商店街を抜けた丘の上の、 レンガ造りの美しい建物。 かの「浦上四番崩れ」の地で、現在に至るまで信徒は非常に多い由。 静粛な堂内は、ステンドグラス越しの陽の光に青く照らされて、神聖な雰囲気。 キリスト教徒ならずとも、これには厳粛な気分になってしまうのだが、 建物の前には原爆で頭部が崩落した聖像などもあって、 なお一層厳粛な気分になってしまう。 道路に出て、建物に向かって左側の川沿いには「落下鐘楼」、 すなわち原爆で吹き飛ばされた塔上の鐘楼が、 落下したそのままに放置してある。
通り道のついでに寄った如己堂・永井隆記念館も、非常に重みがあった。 自身も被爆しながら、被爆者医療に命を捧げた永井博士のささやかな記念館で、 晩年の博士が住んでいた2畳の小屋「如己堂」が隣接。 記念館のパネル展示で、永井博士が妻と最後に会った場面や、 お子さんたちの語る「桃缶」のエピソードには、 どうしても涙を抑えられず。
そして、平和公園と原爆投下中心地。 旅の仕上げと言う訳でもないが、やはり最後はここに来た。 原爆資料館〜浦上天主堂〜如己堂と巡った直後だけに、 さすがにずっしりと思い気分。 平和公園も、原爆投下中心地も、多くの人々で賑わっていて、 それが何だか嬉しいようでもあり、悲しいようでもあり、 ふと「ただ一切は過ぎて行きます」の言葉が脳裏を過ぎった。 平和祈念像と言えば、作者の北村西望は、 我が地元・熊谷駅前の熊谷次郎直実像の作者でもある。 スケールは全然違うけれども。
陽も傾きつつあり、もうそろそろ帰路につかなければならない。 空港行きのバスの中で、窓外を流れてゆく街路を見ながら、 ここ数日、我ながらとにかくよく歩き回いたものだ、と思った。 長崎は、私にはとてもいい街だった。
(2002/06/24)

年賀状 2002年
(2002/01/01)

「塩狩峠」「氷点」を歩く
(1) 序
夏休み、旭川に行ってきた。 三浦綾子さんの街である。積年の念願だった。 残念ながら綾子さんの生前には間に合わなかったものの、 追悼の思いをこめての巡礼の旅と言う訳である。
日程は2泊3日。毎度の如く電車・バス・徒歩での移動となると、 行けるのは三浦綾子記念文学館や『氷点』や『塩狩峠』の風景などに限られたが、 三浦夫妻も歩いた風景を自分も歩けるということだけで、 ファンとしては単純に嬉しいものである。
それにしても、旭川はとにかく暑かった。 実を言えば、豪雪地帯と言うことで多少は避暑になるかと願っていたのだが、 その点に関してはまるで期待外れ。まさに逃げ場のない暑さである。 しかも後で気付くと、いつの間にか過去最悪レベルに日焼けしてしまっていて、 以後数週間にわたって腕や顔のヒリヒリに悩まされる羽目になった。 やれやれ、北海道の夏を甘く見てはいけない。
なお、今回の旅については、 三浦綾子と旭川 の記事を全面的に参考にさせて頂いた。 並の旅行ガイド本など比較にならない程の充実した内容に、ひたすら感謝。

(2) 長野政雄殉職碑
旭川空港からバスで旭川駅へ。 旭川駅から名寄行きの宗谷本線に乗り換える。 ワンマンの気動車で、冷房は天井の扇風機のみ。暑い暑い。 発車前に中年の女性にナガヤマに停まるかと聞かれ、 手持ちの時刻表で確認してあげた処、永山駅で礼を言って降りて行った。
市街を抜け、見晴らしのよい風景を経て、やがて林間に入る。 旭川から約40分、だらだら坂になり、これが小説の例の坂なのかな、 と思っている内に、塩狩駅に到着。降りたのは私一人だけ。 無人駅とは聞いていたが、これほど何もない駅だとは思わなかった。
線路沿いに歩いてすぐ、「塩狩峠」の茶色の標識と 「長野政雄殉職の地」の碑がある。 碑は割に新しいもので、隣に「神は愛なり 聖書」と書いた札がある処を見ると、 キリスト教関係者が建てたものなのだろう。
碑の裏面に、事件の概要が記してある。曰く、 『明治四十二年二月二十八日夜 塩狩峠に於て最後尾の 客車、突如連結が分離、逆降 暴走す。乘客全員、転覆を恐 れ色を失い騒然となる。時に、 乘客の一人、鉄道旭川運輸事 務所庶務主任、長野政雄氏、 乘客を救わんとして、車輪の 下に犠牲の死を遂げ、全員の 命を救う。その懐中より、 クリスチャンたる氏の常持 せし遺書発見せらる。 「苦楽生死均しく感謝。余 は感謝して全てを神に捧ぐ。」 右はその一節なり。 三十才なりき』。
ここがその現場かと思うと、身の引き締まる思いがした。 享年30歳とは、今の私よりも若かったのだ。黙祷。

(3) 塩狩峠記念館
殉職碑から振り返った高台に、塩狩峠記念館の赤いトタン屋根が見えている。 これは、旭川市内にあった三浦夫妻の旧宅を最近移築したもので、入場無料。 意外なことに、団体客らしき人々で賑わっていた。
入口付近は、当時綾子さんが営んでいた雑貨屋・三浦商店の雰囲気を 再現して、古風な日用品や文房具、菓子ケースなどが並べてある。 それらしいものを、よく集めたものだ。
靴を脱いで屋内に上がると、当時の居間と和室になっている。 居間には『氷点』の当選連絡を受けた黒い電話器など、 和室には綾子さんの嫁入り道具を含め、 つい最近まで使われていた家具などが置いてある。 和室のガラスケースには、「墨塗り」の教科書の現物や、当時の学校などの写真、 三浦夫妻の結婚式の招待状などが展示してある。 招待状の下書き原稿まであって、微笑ましい。
狭い急階段を上った2階には、「塩狩峠の部屋」と「氷点の部屋」の2部屋。 「塩狩峠の部屋」は、塩狩峠や長野政雄氏に関する展示パネルや、 古い足踏みオルガンなどを置いた、狭い部屋である。 窓際に、綾子さんが塩狩峠について語るCDを聴ける装置あり、 かつて凍てつく車窓から見た塩狩峠の様子、 主人公を「死なせたかった」場面の設定に悩んだことなど、 綾子さんの肉声で聞くことができる。
階段を挟んだ「氷点の部屋」には、 綾子さんの愛用した鏡台(文学アルバムの類で見たことがある)や、 若き日の愛読書など。 面白いのは、三浦夫妻の口述筆記の体験コーナーで、 綾子さんが口述するエッセイを、 光世さんに代わって、用意した原稿用紙に筆記してみようというもの。 幸いちょうど誰もいなかったので試してみたのだが、予想以上に難しい。 綾子さんはかなりゆっくり話しているように思えたのだが、 それでも筆は追い付かない。 しかも慌てて書くものだから、我ながらひどい筆跡だ。 改めて光世さんの仕事の凄さを実感した。 この設備は、綾子さんの発案で設置されたとのことだが、 三浦文学が三浦夫妻のコラボレーションであることを実感できる 好企画に思えた。
1階に降りて奥の方は、ホール風の広間になっていて、 三浦さんの全作品のリストを掲げたパネルや本棚、 いくつかのテーブルなどがある他、 全体としては何も使っていない空間になっている。 この辺りは旧宅には元々なかった領域。 テーブルの上には、ここの開館式の様子を収めたアルバムが置いてある。 まだほんの数年前のこと。その頃は綾子さんもご存命だったのに。
ふと気付けば、さっきまでの団体客は帰ってしまった様子で、 館内はいつの間にか随分静かになっていた。 館内には冷房がなく蒸し暑く、ぼちぼち私も帰ろうと玄関に戻ると、 受付の女性はいかにも眠そう、と思いきや本当に居眠りしていた。 安眠を邪魔してしまうのを申し訳なく思いつつ声を掛け、 絵はがきを売ってもらって、ここを後にした。
絵はがきは、塩狩峠の林間を煙を吐いて走るSLの写真。 それに、小説『塩狩峠』の一節が小さく書き込んである。

(4) 塩狩温泉
記念館の横には、三浦夫妻の短歌を刻んだ石を点々と並べた小路、 「歌碑の森」が作ってある。もう少し涼しければ、散歩も気分がよいことだろう。
さて、記念館を出たものの、電車もバスも当分ない (どちらも本数が極めて少ないので、旅行者は注意されたい) ので、塩狩温泉に入ってみることにした。 塩狩温泉ホテルの浴場を日帰りで利用できるのだ。殉職碑の横にも案内の看板あり。
歩いてすぐの所だった。 着いて見ると、外観を見る限り、ホテルとは名ばかり。相当にうらぶれた宿である。 併設の ユースホステル に至っては、営業しているとはちょっと信じられないような状況。 しかし、意を決して入ってみると、 ロビーはひなびた温泉宿と言った趣。悪くない雰囲気である。 何故か相田みつをの展示をやっていた。 フロントで日帰り入浴料400円を払って、廊下の奥の浴室に向かう。 妙に閑散としているが、泊まり客はいないのだろうか。
浴室はL字型で、手前に茶色っぽく濁った湯、奥に透明な湯の、二つの浴槽がある。 湯はやや熱めで長風呂向きではないが、 特に手前の浴槽は岩風呂風で風情あり。能書によれば、効能もありそう。 何度も出たり入ったりしつつ、1時間ほど居た間に会ったのは、 旅行者と思しき若者が一人と、湯治客と思しき老人が二人だけ。 空いていて静かなのがよかった。シャンプー等が備え付けてあるのもありがたい。
とりあえずさっぱりした気分にはなったものの、 一歩表に出れば相変わらずの炎天下。 国道に出て、コンビニエンスストアの側に旭川行きのバス停はあった。 定刻より遅れること約10分、到着したバスの冷房が実に心地よかった。 乗客は私一人だけだった。

(5) 外国樹種見本林
翌朝、根性で早起きし、朝食バイキングをそそくさと済ませ、 目指すは 三浦綾子記念文学館。 旭川駅そばのデパート前のバス停でバスを待つ。 バス停の表示盤には、バスが今どこを走っているのか刻々と表示されていて、 待つこと10分。バスに乗ってから20分ほどの「神楽農協前」で降車。 辺りはまさに郊外と言った風景で、住宅街の向こうの森が見本林なのだろう。
道路を渡って歩いて数分、 外国樹種見本林の入口に、三浦綾子記念文学館の特徴的な建物があった。 しかし、ちょっと気合いを入れ過ぎたか、 まだ記念館は開いていないではないか。 駐車場の脇の木陰に、監視のおじさんがいかにも退屈そうに座っていて、 他に辺りには誰もいない。 せっかくなので、開館までしばらく見本林を散策することにした。
ここは、『氷点』の舞台になった場所。 様々な種類の、主に外国の樹木が植林してあって、 小説にもいくつかの樹木の名前が引用されていた。 結構広そうだが、随所に案内板があるので、 方向音痴の私でも道に迷う心配はなさそうだ。 静かな木々の間を、陽子や夏枝・啓造たちも歩いたことだろう。
林の間を抜けて、土手のような場所を上って降りて更に行くと、 美瑛川に出る。さほど広い川ではない。 ここは、ルリ子が殺された場所でもあり、陽子が自殺を図った場所でもある。 この水で陽子は睡眠薬を嚥下した訳だ。水は冷たかった。 これが雪の風景だったらどんなだろう。
それにしても、この川の様子にしても歩いてきた林にしても、 何だか初めて見る風景のような気がしないのは、 小説の風景として頭の中にイメージが出来てしまっているからだろう。 それだけ、三浦さんが小説中に風景を鮮やかに描き出しているという事。 改めて、三浦さんの描写力の凄さを実感した次第である。

(6) 三浦綾子記念文学館
ほどほどの時間になり、ぶらぶらと記念館へと戻ると、 既に記念館は開いていて、いつの間にやら先客もいる模様。 受付の人の応対が、とても心地よい。
1階は、吹抜の広間を取り囲むように、三浦さんに関する展示がある。 まずは全著作やその外国語への翻訳本がずらり並んだコーナー。 私も一応全著作は持っているものの大半が文庫であるため、 単行本の表紙には初めて見るものも多かった。 翻訳本に韓国語のものが多いのが目に付く。 続いて、作家になる前、および作家になった後の三浦さんの生涯を辿る展示。 とりわけ、デビュー作『氷点』に関する展示は充実している。 下書原稿から、懸賞小説への応募稿、更に新聞掲載稿へと、 これほど大幅に書き換えが行なわれていたとは知らなかった。 当選を告げる朝日新聞の現物もあって、 当時の新聞の文字の細かさにもちょっとびっくり。
1階中央の広間では、企画展示として 「三浦綾子署名本展」が行なわれていた。 綾子さんは、新しい本を刊行する毎に、 初版本の扉に感謝の言葉を記して夫の光世さんに献呈していて、 それら本の現物がいくつも展示されていた。 文章はそれぞれ短いながらも、綾子さんの光世さんへの感謝の意が 溢れんばかりに綴られている。 それらの言葉をまとめて印刷した資料が 無料で配布されていたのも有難かった。
2階には、さまざまな小説の風景に関する展示や、 晩年の三浦さんの愛用品などの展示がある。 三浦さんの講演のビデオも流れていて、 その奥には三浦さんの書斎の巨大な写真がある。 原寸大かと思える大きさで、本当に部屋の前にいるような気分。
2階の図書コーナーには、三浦さんや関連の本や資料が並んでいて、 自由に閲覧できる。 一角にはTVが置いてあって、映画『塩狩峠』などのビデオを上映している。 たまたま私が通った時に『塩狩峠』がちょうど始まるところで、 せっかくの機会なので全編を鑑賞することにした。 椅子とヘッドフォンを陣取って、集中して見たせいもあって、 他人の目があるにも関わらず目が潤んでしまった。 『氷点』の映画(今はなき銀座「並木座」で昔見た)はイマイチに思えたが、 この『塩狩峠』の映画はなかなかよい出来のようであった。
1階にはちょっとした喫茶コーナーがあって、コーヒーなどが供される。 係の人のおっしゃることには、ここを含めて、 館内で働いているのは地元のボランティアの人たちなのだそう。 教会関係者もいれば非キリスト信者もいるそうだが、 何れにせよ三浦さんを慕う人々とのことで、 そのせいか本当に感じのよい人たちばかりだった。
出入口付近の売店には、三浦さんの本や記念品の類が置いてある。 館の図録もあって、やや大きなもので荷物となりそうだったが、 私としては買わない訳にはいかないのである。 更には、三浦光世さんの『夕風に立つ』の直筆サイン本も入手した。家宝にしたい。
記念館を出た所に、神楽坂郵便局の出張テントが出ていた。 ここで、「『三浦綾子の世界』はがき」もしっかり入手できた。 この猛暑の中、こんな所でお仕事とは、ご苦労さま。

(7) 旭川市内散策
ニュー北海ホテル。 『氷点』で、陽子が北原と何故かカレーライスを食したレストランは、 このホテルの中であるとのこと。 それだけの理由でこの宿を選んだ。 部屋は新しくはないが、手入れは行き届いていて、窓からの眺めもよく、 総じて好印象の宿。朝夕に新聞が配られるのも有難い。
ちろる。『氷点』で、夏枝と村井が偶然出食わす喫茶店である。 煉瓦の壁、落した照明、ゆったりした座席。 静かに流れているのは、J.S.バッハのリュート組曲。 やはり今年はバッハ・イヤー(没後250年)なのである。 コーヒーは本気で美味しかった。
富貴堂書店。 『氷点』で、啓造がふと聖書を手にする書店。 と言うことで、キリスト教書コーナーに行ってみた。2階にあった。
旭川六条教会。三浦夫妻が通っていた教会。 駅から歩くとやや遠い。意外と騒々しい場所にあった。 すらっと斜めの屋根が特徴的。さすがに中には入らなかった。
常盤公園。広い公園で、特に池のまわりには沢山の人々がくつろいでいた。 平和な光景である。 構内には道立旭川美術館があって、 ホテルに置いてあったパンフレットに、舟越桂作品を常設展示との記載あり。 せっかくなので立ち寄ってみたが、いざ入ってみるとそれらしいものは見当たらず、 受付の人に聞いてみると、今回は展示していない由。 残念至極。ちなみに観客は私一人だった。
ナザレ。 ゴスペルものの音楽が流れる喫茶店で、アットホームな雰囲気。 店内の額の言葉が印象的。曰く、「薔薇は薔薇のように、すみれはすみれのように」

(8) 美瑛
実を言えば北海道に来たのは今回が初めてのことで、 せっかくなので少しは「観光」もしようと、美瑛に行くことにした。 この風景は三浦夫妻もお気に入りだそう。
前日以上に早起きして、またしてもそそくさと朝食を済ませ、 ホテルをチェクアウト。 JR富良野線で美瑛に移動し、駅前の松浦商店でレンタサイクルを拝借。 店の人は手作りの地図に赤ペンで丁寧に説明してくれた。 手荷物も預かってもらい、身軽になっていざ出発。
朝から絶好の天気。暑さも自転車ならば吹き飛んでしまう。 多少の起伏も、3段変速なので問題なし。時間もたっぷりある。 広々とした風景に、ああ北海道に来たんだとつくづく嬉しく思いつつ、 実に5時間以上もすいすいと走り回ってしまった。 とにかく自転車はいい気分。時折足早に通過する観光バスの人々が気の毒な位だ。 同じようにサイクリングしている人も多く、 カップルは勿論、女性一人で回っている人や、日本語でない人(台湾人か?)も見掛けた。 皆楽しそうだ。
しかし午後になって、丘の展望台で休憩しつつふと気付けば、 腕がもの凄い色に焼けている。改めて見ると顔もまた然り。 ここまでひどく日焼けしてしまったことは、記憶にある限りかつてない。 日焼け対策を一切していなかったのが今更ながら悔やまれる。
そして恐れていた通り、以来数週間に渡って、 手や顔のヒリヒリに悩まされ続けることになる。

(9) ソフトクリームとレクイエム
美瑛から旭川空港行に向かうバス(ラベンダー号)を待つ間、 やや時間があったので、 涼を取るべくバス停前のソフトクリーム屋に入った。 ログハウス風の小ぢんまりした建物である。 店に入ると聴き覚えのある音楽が。 すぐに判った。フォーレのレクイエムだ。 炎天下のソフトクリーム・カウンターと、静かに流れるレクイエム。 あまりに場違いと言うかミスマッチな音楽に、どうにも嬉しい気分になってしまった。
しかも、店員さんは妙齢の上品な女性で、 体型と服装から言って妊婦の御様子。 胎教にフォーレのレクイエムなんて、何と美しく、何と哲学的なのだろうか。 変に感動しつつ、しばらく音楽に聞き入ってしまった。
やがてバスの来る時間。 店員さんの「お気を付けて」の言葉に、会釈して店を出た。
レクイエムにはソフトクリームがよく似合ふ。なんちゃって。

(10) 帰途
三浦さんにまつわる土産もしっかり購入した。
三方六。 バウムクーヘンをクリームでコーティングしたようなもの。 厳密には旭川でなく帯広の銘菓らしいが、 三浦夫妻のお気に入りだったそうで、栞に三浦さんの賛辞が引用されている。 三方六とは、薪の大きさが縦横高の3方が6寸であったことによる由。 実際に菓子の長辺がほぼ6寸になっていたことにも、後で感心した。
氷点。ミルク餡の饅頭にくるみを乗せた、何ということのない菓子。 しかし、この名前では買わない訳にはいかないのである。 栞に、三浦さんの『氷点』に因んで名付けた旨の記載もあった。
この旅も間もなく終り。帰りの飛行機の中で、 長年憧れていた場所に来ることができて本当によかったと、つくづく思った。 自分の中に占める三浦夫妻の存在の重要性を、再認識する旅でもあった。 綾子さん、光世さん、ありがとう。
飛行機の窓から見える首都圏の夜景が綺麗だった。 このまま飛行機が落ちて今死んでしまってもいいな、 などと不謹慎なことを思った。レクイエムも聴いたことだし。
しかし飛行機は無事羽田に着陸した。空港の夜景も綺麗だった。
(2000/09/21, 2001/02/22)

年賀状 2001年
(2001/01/01)

媚びる人
総理大臣の森某が、 先の沖縄サミットへの協力に感謝して、 サミットのテーマソングを担当したとか言うミュージシャン・小室某 (間違っても小室等さんではない)に感謝状を贈るのだそうな。 総理大臣殿から表彰されるとあっては、小室はさぞかし嬉しいことであろう。
しばらく前のTVニュースで、両者の対面の様子を見た。 どこに出しても恥ずかしい馬鹿丸出しの森に、 ヘラヘラと作り笑いでゴマを擂る小室。 小渕への想いで曲を作ったとか何とか。 みっともないったらあしゃしない。 日本の政治(と言ってよいのか)と文化(と言ってよいのか)の 体たらくを象徴するような場面に思えた。
一方で、総理との記念撮影をきっぱり拒絶したサッカーの中田英寿さん のような人もいる。何とすっきりした気分にさせてくれることか。 首相の私的な諮問機関への招待を拒否した 女優の紺野美沙子さんや建築家の安藤忠雄さんなどについてもまた然り。 音楽家にしても、今回のサミットについても堂々と 言いたいことを言っている さだまさしさんなどもいる。 この人たちの潔さはどうだろう。
反骨の気概。 私も少しは見習うべく、上司に対してささやかな反抗を企ててみたりして。
(2000/09/01)

Netscape Messenger
最近、近所の人に頼まれて、PCのネット接続を手伝うことがよくある。 PCそのものの使い方すら分からない人が、 電子メールなど使おうというのだから、 良かれ悪しかれすごい時代になったものだ。
Outlook云々他のMicro$oftのネット関連ソフトが 「諸悪の根源」なのは周知の通りで、 代わりに私はNetscape Communicatorを入れてあげている。 現状ではこれが無難な選択だと思う。 インストールには、家電店などで無料配布されている DIONのプロモートCDを使っている。 このCDには、プロバイダの契約用の仕組みの他に、 おまけとしてNetscapeなどいくつかの定番ソフトが入っているのである。 ありがたいものだ。
ところで、Netscapeの新しい版(4.5〜)では、 Netscape Messenger (mailer)の起動時に 自動的にNetcenter (Netscape社のサイト内)に接続するようになってしまった。 何故こんな仕様にしたのか。 特にダイヤルアップユーザの場合、何もしない内から接続の催促が出てしまう。 実に鬱陶しい。 しかも、英語版ならともかく、日本語版Netcenterは内容的に使い物にならないのだ。
後になって、Netscapeのhelpページに解決方法を発見した。 設定ファイル (しかも編集禁止と書いてある!) を自力で修正せよとの、 ほとんど裏ワザ的な方法である。 これで起動時の不便は解消する。しかし、これはド素人にはとても無理だろう。 なぜ標準の設定項目の中に取り込まなかったのだろうか。
もしかして、この不便な仕様のお蔭で 「諸悪の根源」へと流れてしまった哀れなユーザがいたとすれば、残念なことだ。 別にNetscapeの肩を持つつもりはないが、 こんなことでもまたシェアを落してしまったら実に勿体ない。
近々、mozillaプロジェクト の成果を反映した「Netscape 6」が、ようやく世に出ることになった。 個人的には非常に楽しみである。 今度は、こんな厄介な仕様でユーザをがっかりさせないで欲しい。
(2000/03/30)

年賀状 2000年
(2000/01/01)

桜桃の味
渋谷ユーロスペースで『風が吹くまま』を見た。 アッバス・キアロスタミ監督、1999年、イラン映画。 主題は謂わば「生と死」。 葬儀の取材のために老婆の死を待つTV取材人の物語である。 説明の極端に少ない、見る側に思索を要求する内容だった。
キアロスタミ監督の作品は、前作『桜桃の味』も見た。 自殺したい男が、自分の横たわる墓穴に土をかけてくれる人を探して歩く、 ある種哲学的な物語だった。 場所は同じくユーロスペース、1998年6月19日のことだ。 ことさらに日付まで記憶しているのには、理由がある。
その日、家に帰ると、とんでもないニュースが私を待っていた。 Hさんが自殺したのだ。 私のいとこで、子供の頃からよく遊んでもらった。46歳。 排気ガスを車内に引き込んであったそうだ。 信じられなかった。Hさんにはつい最近会っている。 身近な人を失った経験のなかった私には、 事実を現実として受け止めるのはあまりに難しかった。
そんな中、ふと気付いた。6月19日、今日は桜桃忌だったのだ。 言うまでもなく、太宰治の遺体が発見された日である。 太宰の愛読者を自称しつつ、 そんなことに気付かぬままこの一日を過ごした自分が情けなかった。
Hさんがこの日を狙ったのか、偶然の一致か、今となっては分からない。 しかし、6月19日、太宰の自殺、桜桃忌、桜桃の味、自殺したい男、 そしてHさんの自殺。 奇妙なまでの符合に、この「6月19日」という日は私にとって、 単なる桜桃忌以上の特別の意味を持ってしまった。
『桜桃の味』の最後。 男はようやく墓穴に土をかけてもいいという老人を捜し出し、 夜中、薬を飲んで穴の中に横たわる。 突如そこで画面は一転。その映画の撮影風景が映し出される。 監督、カメラマン、スタッフ、 そしてもう死んでいたかも知れないあの男もぶらぶら歩いている。 男の生涯は、映画の中の物語へと転化した。 それまでの一切の現実が、その瞬間に虚構になったのだ。
そう、この世界は、見方を変えれば、そのまま虚構のようなものかも知れない。 この意表を突くラストシーンの重みが分かってきたのは、 しばらく後になってからのことだった。
(1999/12/25)

絶対
「絶対」と言い切れるのは「人はいつか必ず死ぬ」 ということだけ。そう言った人がいた。 極論だが、言いたいことはよく分かる。 「絶対」なんてことは、世の中にそうあるものではないのだ。
自分の意見が絶対に正しい筈がない。 自分にとっての絶対は、他者にとっての絶対ではない。当り前だ。 そもそも、今日と明日とで、自分の意見が一致するかどうかさえ怪しい。
話せば分かる。これがもし幻想でないとするなら、 ここで言う「分かる」は、意見の一致を意味しない。 迎合でも妥協でもない。認知、それだけだ。
他者の考えを完全に理解できる訳がない。 それでも、自分とは異なった考え方が存在し得る、それだけは認めたい。 充分に難しいことだが。
自分の主張から一歩も譲らない人のご意見を拝聴しながら、考えていたこと。 自戒を込めて。
(1999/12/18)

世論調査
今日12月15日の朝日新聞、世論調査によれば、 内閣支持率43% だそうである。 どうも最近、似たような話を読んだ気がして、探したらすぐに見つかった。 先週12月6日の毎日新聞の世論調査である。 内閣支持率27%とある。
勿論、変動の大きくて然るべき数値とは言え、 先週と今週で27%と43%とは随分な違いである。実にあてにならないものだ。 まあ、世論調査なんて、そんなものなのかも知れない。 単純に踊らされたくないものである。
ちなみに、もう一つの大手である読売新聞も調べたかったのだが、 やれやれ、過去記事の検索は有料である。 何れにせよ高い数字になるのだろうけれど。
そう言えば、「世論」の読み、広辞苑によれば本来はセロンのようだ。 ヨロンと読むのは「輿論」の代用、とある。さだまさしの 空缶と白鷺 で「セロン調査では国民の九割が中位満足してる…」 と歌われているのに馴れているせいもあって、 NHK のアナウンサーまでがヨロンと呼んでいるのを聞くと、 私はどうも違和感を覚えてしまう。
(1999/12/15)

さようなら、三浦綾子さん
1999年10月12日17時39分、三浦綾子さんが亡くなってしまった。
学生の頃、友人に勧められて『氷点』を読んだ。 これは大切な本だからと、念を押して貸してくれたのを覚えている。 引き込まれる物語の展開、読者への生易しくない問い掛けを残す結幕。 これが私にとって三浦綾子さんとの出会いだった。
それ以後、それこそ片端から三浦さんの著作を読み漁ることになった。 大型書店に行けば必ず三浦さんの棚をチェックした。 全著作は勿論、文学アルバムや、挙げ句は講演や対談のカセットテープまで 入手した。それほど好きな作家だった。
三浦さんの作品は、言うまでもなく、キリスト教の信仰に基づいている。 三浦さんの愛読者と言いながら、結局キリスト教徒にはなっていない私だが、 それでも三浦さんを通じて向かい合うこととなったイエスの思想から、 いつしか私は離れられなくなっていた。
病身を押して、まさに身を削るように執筆し続けた三浦さん、 長い間お疲れさまでした。 素晴らしい作品を残してくださって、本当にありがとう。
(1999/10/12)

ぬばたまの
中華迷より。 マギー・チャン(張曼玉)が 若者の茶髪について言った言葉(99.08.06)が印象的。 曰く、黒髪は「アジア女性特有の美しさ」であると。
茶髪そのものは、 (私自身は嫌いだが、それはさて置き)、 客観的に考えれば、顔に化粧することの延長みたいなもの。 良く言えば、自己表現の幅が拡がったとも言えるだろう。
しかし、誰も彼も皆揃って茶髪となると、話は別ではないか。 本来は個性を際立だたせるための装飾が、逆に個性を殺している。 今や、逆に黒髪の清潔感がむしろ際立って見えてくる。
マギー・チャンの「大人」の発言は、さすがだと思う。
それにしても、日本の芸能ネタだと馬鹿馬鹿しくて仕方ないのに、 中国語圏のことだと話が高尚に思えてしまうのは何故か。
(1999/10/08)

三浦綾子さんのこと
三浦綾子さんが重体になって、もう一ヶ月ほどになる。 毎日心配で仕方ない。 できることなら、自分の命を10年削っていいから、 その分を三浦さんに分けてあげたい。
本とかを読んだだけで、会ったこともない人なのに、 そんなに心配するなんて、どうかしている、と言う人がいた。 読書のかたちには色々あってよいし、ごもっともだ。 しかし、少なくとも私は、その作品に注ぎ込まれた魂を通じて、 三浦さんご自身と正面から向かい合いたいと願うものである。
三浦綾子 愛読者ページの「らくがき帳」を見ると、 実に沢山の方々が三浦さんのことを案じていて、 共有する願いに、見えない結び付きを感じる。 私と同じく、信仰までには至っていない失格読者も少なくない。 皆の想いが届きますように。
(1999/10/07)

「津軽」を歩く
(1) 序
夏休み、津軽に行ってきた。 太宰治の小説『津軽』に出て来る場所を訪ねたかったのだ。 2泊+寝台2泊の実質丸3日間、 太宰の足跡を追って、足にマメができる程歩きまわった。 しばらく、この旅について、思い付くままに書いてみたいと思う。
宿を五所川原に確保、 初日に太宰の生家(金木)の周辺、 2日目に津軽半島の東海岸(蟹田〜竜飛)と青森、 3日目に西海岸(小泊)と弘前。 列車の本数は少なく接続も悪く、バスの便だけしかない場所も多く、 交通事情は至ってよろしくなかったが、 五十数年前に太宰が同じように歩いた行程と思うと、 感慨深いものがあった。
太宰と言えば『人間失格』や『斜陽』の印象が強いのは致し方ないが、 中期と呼ばれる戦前〜戦中には、明るく前向きな作品を精力的に執筆していた。 『津軽』はその時期の珠玉と言うべき傑作。 太宰は「暗い」とお思いの方には是非、 実り多き太宰文学のもう一つの世界も知って欲しい。

(2) 斜陽館
炎天下、金木駅 から看板に従って歩いて数分、 斜陽館 が見えてくる。 太宰が生まれ、少年時代を過ごした家である。 大地主であった太宰の生家は当時としては豪邸で、今でも津軽鉄道の車窓から 赤い屋根が浮かび上がって見えていた。
父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。
確かにひどく大きい家だ。入ると広い土間が見える。 観光客はさすがに多いが、それほどの混雑でもなく、割と静かである。 靴を脱いで上がって、どこでも自由に見られるのがよい。
蔵を利用して、写真や資料の展示を行なっている。 太宰の読者には心当たりのあるものが多いだろう。 生誕90周年記念で、別の蔵でも特別展示が行なわれている。
とにかく部屋数は多い。 まるで旅館である(実際しばらく前まで旅館として使われていた訳だが)。 取って付けたような西洋的な階段と洋室は、成金趣味的な印象。 屋敷全体に、どこか空々しく、生活の場と言う感じは薄い。
金木の生家では、気疲れがする。 また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。 肉親を書いて、さうしてその原稿を売らなければ生きて行けないといふ 悪い宿業を背負つてゐる男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。 所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、 あちこちうろつき、さうして死ぬのかも知れない。
気疲れがする、と書いてしまった太宰の気持が、何だか分かる気がした。

(3) 卵味噌のカヤキ
こんど津軽へ出掛けるに当って、食べてみたい物が一つあった。 『津軽』で、「津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振り」を見せたSさんが 連呼している処の「卵味噌のカヤキ」である。
この卵味噌のカヤキなるものに就いては、 一般の読者には少しく説明が要るやうに思はれる。 津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、 牛のカヤキ、鳥のカヤキといふ工合に呼ぶのである。 貝焼の訛りであらうと思はれる。 いまはさうでもないやうだけれど、私の幼少の頃には、津軽に於いては、 肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用ゐてゐた。 貝殻から幾分ダシが出ると盲信してゐるところも無いわけではないやうであるが、 とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなからうかと思はれる。 私たちは皆、このカヤキを食べて育つたのである。 卵味噌のカヤキといふのは、その貝の鍋を使ひ、 味噌に鰹節をけづつて入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、 実は、これは病人の食べるものなのである。 病気になつて食がすすまなくなつた時、 このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。 けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがひなかつた。
そんな訳で、 金木観光物産館 のレストランのメニューに 「貝焼き味噌定食」を発見した時には、狂喜せんばかりに嬉しかったのである。
待つこと十数分、待望の卵味噌の登場である。 中身は、太宰の解説通り。 やや焦げのある大きな貝殻に半熟の卵が入っている。 予想に反して味噌味だけで甘味はないが、おいしいものである。 しかし、これだけで定食の主菜とするには、いささか力不足な気もした。 やはり病人の食べるものか、あるいは酒の肴にふさわしいものだろう。
そんなことを思いつつも、念願叶った私の気分は上々。 売店で原稿用紙を模した絵はがきを買って、ご満悦でここを後にした。
観光物産館 は、斜陽館の道を挟んだ向かいにある。 先週オープンしたばかりの模様。土産を売る売店とレストランが入っている。

(4) 雲祥寺・南台寺
雲祥寺。 斜陽館からほど近い。 幼い太宰が、子守のたけさんに連れられて、しばしば行った寺である。 ありがたいことに「拝観は御自由に」となっている。
たけは又、私に道徳を教へた。 お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。 火を放けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、 めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。 血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、 到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。 嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、 と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
この地獄絵の現物を見られる。7巻の連作で、思ったよりも大きいもの。 かなりグロテスクな描写が満載で、これでは子供が泣き出すのも無理はない。
卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のやうな黒い鉄の輪のついてゐるのがあつて、 その輪をからから廻して、 やがて、そのまま止つてじつと動かないならその廻した人は極楽へ行き、 一旦とまりさうになつてから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、 とたけは言つた。 たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻つて、 かならずひつそりと止るのだけれど、 私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。 秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つて その金輪のどれを廻して見ても 皆言ひ合せたやうにからんからんと逆廻りした日があつたのである。 私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。 日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。
この鉄の輪のついた卒塔婆も、実際にここにある。「後生車」と言うらしい。 私も何度か回してみたが、太宰と同じく、どれも逆廻りしてしまう。 どうも私は、地獄へ落ちる運命であるらしい。
更に付近には、津島家の菩提寺、南台寺がある。 太宰の父と兄の墓には、そこにだけ鳥居が付いていて目立っている。 何故寺に鳥居なのか、不可解だ。
言うまでもなく、太宰自身の墓は、遠く三鷹の禅林寺にある。

(5) 芦野公園
雲祥寺付近から芦野公園への道沿いに、 太宰治思い出広場 なる休憩場所が用意されている。 このコースを歩く人が多いのだろう。 傘のような屋根のあるベンチを囲む煉瓦塀に、 太宰の全作品名を書いたタイルが散りばめてある。 しかし、この炎天下、休憩するには残念ながらここは暑すぎる。
芦野公園。 池(と言うより湖)を囲んだ、かなり広い公園である。 散歩する人あり、座る人あり、寝る人あり。 池にはいくつかの橋があり、「夢の浮橋」には釣人が溢れている。 解説パネルによればこの橋は、 本当に発泡スチロールの浮きで水面に浮かんでいるそうだ。
太宰の文学碑 は、池を見下ろす小高い場所にある。 太宰の友人阿部合成氏によるもので、 鉄格子のような窓の上部に、 火の中に飛び込まんとする鳥が透かし彫りになっている。 マグリットの「狂信者たち」を思い起こさせる。 碑文は「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」。 裏はヴェルレーヌの原文らしいが、フランス語は分からない。
池の端、水が干上がった辺りには、太宰橋がある。 小さな木の橋で、袂に 「疎開時に 太宰の姿 見かけしは 入江の木陰 ここらあたりぞ」とある。 この辺りは釣場でないせいか、私の他、誰一人通りかかる人もない。 ひたすら静かな夕暮れ前。太宰もこの静けさを好んだのだろうか。

(6) 津軽鉄道
五能線なども風情があったが、何と言っても津軽鉄道。 岩木山を遠目に、りんご園や田圃の間を走る一両編成。 電車でなく気動車である。 今は「風鈴列車運転中」で、列車の中に風鈴が揺れていた。 ガイド本によれば、冬は「ストーブ列車運転中」となる由。
芦野公園駅という駅がある。 太宰は、その駅での爽やかな挿話を『津軽』に描いている。
窓から首を出してその小さい駅を見ると、 いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、 大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、 眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、 美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、 まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。 少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。 少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。 まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。 こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。
その駅で私も、それにちょっと似た、いい光景に出会った。 扉が閉まって、列車がゆっくりと動き始めて、窓からその小さい駅を見ると、 いましも白っぽい涼し気な服を来た若い女性が、 旅行者らしい鞄をさげて改札口からホームへと走って来て、 するとみるみる列車は減速し、ホームの端で停止して、 乗務員の人が扉をから首を出して「いいですよ、どうぞ」と言って、 女性は「すみません」と笑みを浮かべて乗り込んで、 それから列車は、ごとんと発車だ。 まるで、映画の美しい一場面のように思われた。 やはり、こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。

(7) ねぶた・ねぷた・立佞武多
旅行中、好運にも、 青森ねぶた、 弘前ねぷた、五所川原の立佞武多(たちねぷた) を見物できた。 青森のものが圧倒的に有名で、 何を隠そう私も、他は旅行ガイド本を見て初めて知った次第である。 大まかに言えば、青森はハリボテ人形、弘前は絵を描いた扇型、 五所川原は高さ20mを越える巨大な立像と、形もそれぞれ全然違う。 運行の様子もそれぞれで、青森のはかなり動き回り、 弘前のは扇部分を(あるいは台座ごと)回転し、 五所川原のはゆっくりと動く。 更に、掛け声も雰囲気も各々独特である。 個人的には、五所川原の立佞武多のデカさには、最も度肝を抜かれた。 津軽人の心意気、見るべしである。
ねぶたについて、『津軽』では、 凶作の話の中で「作者註」として僅かに触れられているだけである。
陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、 若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。 他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。 坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、 このやうな大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ 之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なほ信ずるに足らず。 津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。 東北の夏祭りの山車《だし》と思はば大過なからん歟。
太宰は祭りを好まなかったのだろうか。
ともあれ、どの場所でもそれぞれ地元の人たちは、 それこそ皆一心に取り組んでいる。 これに賭けている。本当に楽しそうだ。 実を言えば元々お祭り騒ぎの類が好きでない私だが、 こんな街に生まれ育った人々をちょっと羨ましく思ったりもした。

(8) 蟹田
蟹田 は外ヶ浜すなわち津軽半島東海岸の町で、『津軽』の主要舞台の一つ。 列車を降りると、海の匂いがする。 駅を出て、消防署で観瀾山の方角を聞く。 親切にも、わざわざ通りまで出てきて、指差して教えてくれる。
20分ほど歩いて蟹田川を渡ったあたりに、「中貞商店」を見つける。 『津軽』の「N君」こと太宰の親友、中村貞次郎さんの家の跡である。 確かに太宰は、しばらくここに滞在し、酒を飲み、蟹を食べ、短篇を一つ仕上げ、 N君の精米所を覗き、凶作年表を憂い、そしてまた酒を飲み交わしたのだ。
更に少し歩いて、観瀾山公園に至る。
その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。 けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。 その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、 青森湾の向うに夏泊岬が見え、 また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。 東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、 怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、 この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、 塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。
山を登った所に、太宰の文学碑がある。 御坂峠の碑(富士には 月見草が よく似合ふ)に似ている。 碑文は「かれは 人を喜ばせるのが 何よりも好きであつた!」、佐藤春夫の筆による。 「喜」の字は、七を三つ並べた旧字である。 太宰やN君TさんMさんSさんらが、桜の下で酒と文学論を交わしたのは、 恐らくこの辺りなのだろう。 山から見下ろす蟹田の海は、やはり、ひどく温和でそうして水の色も淡かった。
その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、 「蟹田つてのは、風の町だね。」と私は、 れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしてゐたものだが、 けふの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑ふかのやうな、おだやかな上天気である。
この太宰の一言にちなんで、蟹田は「風の町」。 駅にも「風の町」、道にも「風の町」、案内チラシにも「風の町」とある。 たまたま太宰がこの町に来たために、 つまりはたまたまN君がこの町に住んでいたために、 はからずも「風の町」と名付けてもらった訳である。 そんな幸運な蟹田町は、その日も、おだやかな上天気だった。

(9) 竜飛

蟹田から三厩まで列車で45分、更にバスに乗り換えて45分。 終点の 竜飛灯台前 でバスを降りると、 いきなり「津軽海峡冬景色」が耳に飛び込んで来る。 ごらんあれが竜飛岬北のはずれと…と歌詞を記した記念碑があり、 自動的に曲が流れているのだ。 しかも、1番は飛ばして、竜飛の名が出る2番から始まるのだ。 どうにも注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。
名所「階段国道」を下ると、道の先、突き当たりの堤防沿いに、 例によって太宰の碑がある。
ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落 ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。
実に、本当に袋小路なのである。この先に路はなく、堤防があるだけ。 堤防は高く、ここから海は見えない。
ふと見ると、堤防の隅に海岸へ抜けると思しき階段があるではないか。 階段を登って見ると、海岸沿いに、か細い歩道が続いている。 まだ先に路があったのだ。とりあえず行ってみる。
あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。 それは、もはや、風景でなかつた。 風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、 謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、 高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やつぱり檻の中の猛獣のやうな、 人くさい匂ひが幽かに感ぜられる。 昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、 すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、 この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。
この辺りの海の風景は、まさに太宰の言う通り、ただ岩石と、水である。 北海道が意外と近くに見えている。
海に沿ってしばらく歩く内に、突然、歩道が途切れた。 先は石だらけの海岸である。今度こそ本当に路が絶えたのだ。 ついに来るべき所まで来た。
そう思いつつ前方を眺めると、 見よ、岩だらけの海岸のはるか先に、また歩道らしきものが見えているのだ。 引き返すのも無意味な気がして、海岸の岩の上をよろよろと進み、 靴は傷だらけになり、ようやくまた歩道に出たものの、 果して路が何処に続くのやら見当も付かず、 しかし今さら他に行く先もなく、とりあえずそのまま進む他ない。 道は海岸を離れて、急斜面を蛇行しながら登ってゆく。 息を切らしつつどうにか登り詰めると、突然風景が開けた。 そこは灯台の麓だったのである。
結局私は、岬の北端を海沿いに延々ぐるりと回って来たのだ。

(10) 小泊
五所川原からバスに揺られて2時間、終点 小泊で下車。 看板に従って運動場を巡った所に、 小説『津軽』の像記念館がある。 『津軽』のクライマックス、越野たけさんとの30年ぶりの再会。 ここはその現場なのだ。
それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、 たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。 でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、 へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、 たけの小屋に連れて行き、 「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、 きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、 子供たちの走るのを熱心に見てゐる。 けれども、私には何の不満もない。 まるで、もう、安心してしまつてゐる。 足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。 もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。 平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。 もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。
建物の前に3つの胸像が並んでいる。 太宰、少年時代の太宰、そしてたけさんだ。
館内には、太宰とたけさんに関する資料や写真が並ぶ。 たけさんの写真、着物や愛用の小物、掛小屋なるものの様子、 生前のたけさんのインタビュー映像も見られる。 更に現在は生誕90周年記念で、 『津軽』に出てくる人や場所の写真を特集展示している。 N君、Tさん、読書家のMさん、熱狂的接待のSさん、アヤ、 テイデン和尚を解説したおかみさん、鯛事件の宿、 蛮声に度胆を抜かれたお婆さん、コモヒのある薬品店、等々。 『津軽』の愛読者には、もうたまらない。来た甲斐があったと言うものだ。
件の二人の像は、建物の横にある。 たけさんは正座し、太宰は片足を伸ばして、静かに運動場を見下ろしている。 太宰の「心の平和」そのものを、見事に再現していると思う。
時間もあったので、記念館の受付でたけさんの家の場所を聞き、 教わった通りに歩くと、越野金物店はすぐに見付かった。 太宰は「間口三間くらゐの小ぢんまりした金物屋」と言っているが、 いかにも普通の金物屋だった。 ガラス戸が少し開いていた。

(11) 津軽弁
津軽の像記念館で、たけさんや (太宰を運動場まで案内した)娘さんのインタビューを聞いていて気付いたのだが、 『津軽』の中の会話は、実際には大半が津軽弁だったのだ。 太宰は小説の上で、「一般の読者」への便宜上、 標準語的な会話へと改めていたのである。
実は、そのたけさんたちのインタビュー、 さっぱり聞き取れなかったのだ。 字幕が出るので内容は分かったものの、私には殆ど外国語のようであった。
意味は分かりづらいが、しかし津軽弁の響きには、 何とも心地よいものがある。 温もりなどと言ったら、津軽の人に笑われるだろうか。 そんな響きで会話が交わされたことを念頭に置くと、 『津軽』にまた新たな味わいが浮かび上がるような気がした。
私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。 かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。
実際娘さんは、太宰と店先で最初に会った時、 太宰が津軽弁で話し掛けたのですぐに打ち解けたのだ、と話していた。
ちなみにインタビューで本人が白状していたのだが、 娘さんの腹痛は、実は仮病だったそうだ。 運動会で走るのが嫌で、腹痛を装って抜け出した由。 あの再会の場面は、仮病のお蔭で生まれたことになる。

(12) 余滴
今回、『津軽』を巡る文学散歩の案内として、『探訪 太宰治の世界』 (渡部芳紀著、 ゼスト出版)が大いに参考になった。 これから津軽に向かわんとする人は、是非この本を手にして欲しい。
さて、ここまでで触れなかった、太宰関連の場所について記しておく。
弘前市立郷土文学館。 弘前観光館の側にある。 弘前や津軽にゆかりの文士を紹介しており、 当然太宰のコーナーはあるが、資料は多くない。 太宰の親友であった今官一や、太宰研究家でもある長部日出雄のコーナーもある。
津島歯科。五所川原駅からすぐ。太宰の叔母きゑの家である。 通って見ただけ。
青森の太宰下宿跡。駅前通り、全信連ビルの前。 歩道にパネルが立っているだけ。
奥谷旅館。『津軽』で、太宰とN君が泊まった。 N君の蛮声事件の翌朝、童女の歌声を聞いた宿である。 竜飛灯台へのバスの中から見えただけ。 ここに泊まればよかった、とは後の祭。
弘前公園。 太宰を真似て「お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望」してみたりした。 「津軽人の魂の拠りどころ」とするには、 弘前城の天守閣はあまりに小さく頼りない。
喫茶「万茶ン」。弘前市街にある、昭和初期創業の上品な喫茶店。 弘前時代の太宰も足を運んだらしい。 珈琲も美味しかった。
西海岸の町、木造や深浦、鰺ケ沢などには、今回は残念ながら立ち寄れなかった。 いずれまた津軽を訪れるための、自分への口実になるだろう。
まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、 津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。 私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。 さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。
(1999/08/13)


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